「佳代ちゃん、今日は悪いけど店の手伝いはええから、秋ちゃんに付いて行って心斎橋の支店の方を手伝うてやってくれへんか? 心斎橋の店が今日は、売り出しやから夏美ちゃんだけやったら手が足らんかもしれへんからなぁ。」
座敷の食卓で家族だけ食事中の奥さんが箸を置いて台所の方へ話しかけてきた。
さっき朝食の手伝いを終わらせて、台所で夏美ちゃんと私の分の朝食を用意していた時、引き戸越しに話しかけられた。
「はい。分かりました。早く片付けて秋ちゃんと夏美ちゃんと一緒にでかけます。」
私と夏美ちゃんは急いで朝食を済ませた。佳代は、たまに心斎橋店で手伝っている。化粧品の勉強にもなるし、賑やかな通りはいろんな人が店に入ってきて楽しい。
出かける準備ができたところ、出がけに、先日の男性から電話があった。交通事故を示談にしたいので一度会って欲しいとの事だった。佳代は、交通事故というほど大袈裟な事ではない。
軽い捻挫だったし、すぐに治っていたので忘れていたが大切なお気に入りの靴を弁償してくれると言ったので佳代は、会う事にした。
奥さんには足のケガの事は、言っていなかったので電話の後、説明が大変だったが店に出かける前で急いでいたので、もう済んだ話だとごまかした。
数日後、会う場所は、心斎橋のお店らしい。
その男性が指定していた場所が心斎橋の繁華街で地理的には大丈夫の佳代だったが、気になるのが指定の時間だった。夜の繁華街には出かけた事がないので夏美ちゃんに付き合ってもらえるように誘っていたのに、当日夏美ちゃんが風邪で行けなくなった。一人心細いが出かけるしかない。
お店は繁華街から少し入った通りのクラブだった。佳代はまだ未成年、十九歳になったばかりの女の子。ドアを開けるのに勇気がいったし、怖かったが思い切って重いドアを押して中に入った。
「あの~。すみません。今夜、九時に店に来て欲しいと北田さんに言われて来た、山下佳代といいます。北田さんはいらっしゃいますか?」
佳代は、勇気を出して薄暗い店のカウンターの奥に立っていた男性に声をかけた。
「あぁ。君が交通事故の相手だったのか?まだ未成年のように思うが君は何歳?こんな大人の店に入るには勇気がいっただろう?待ってて、すぐに呼んでくるから。」
背の高いスラっとして優しそうな顔をしている男性が奥に入って行った。多分、バーテンさんだろう。カウンターには人影が二名。お客が入っていたが入口より遠い席だったので顔も分からなかった。
「あっ、君か?今日はわざわざ来てもらってありがとう。ちょっと奥の部屋に来てくれないか?」
北田は、そう言って佳代を奥の部屋に案内した。
「ここに、示談書がある。正式ではない用紙だが、俺が書いておいたものだ。君の名前とハンコを押して欲しい。」
そう言って北田は、机の上に用紙を置いた。白紙の用紙に、簡単に書いていた。示談書と書いている。後は、佳代の名前とハンコの場所だけを鉛筆で丸く囲んでいた。読んでみると、保険は使わず、北田、本人の自費で治療代を払った事実を書いている。
お見舞い金として、五千円の金額と、後々、不服を言わない事。と、書いてあった。多分警察には報告していないのだろうと思った。
佳代の給料が住み込みで部屋代と食事代がタダで月、三千円だったので五千円は、佳代にとって嬉しかった。高卒の給与が七千円、大学卒の給与が一万円だったのだ。
「すみません。私、名前は書きますが、ハンコは持っていません。」
名前を書いた後、佳代が言うと北田がハンコの代わりに親指の印でも良いと言って朱肉を差し出した。佳代が親指を押してその書類を北田に渡すと、封筒に入っている五千円をくれた。
佳代は、久しぶりに頭の中がザワザワしてドキドキしてきた。邪悪な空気で息苦しくなって急いで早くこの部屋から出て行きたかった。
「ありがとうございました。私の足はもう治っているので気にしないで下さい。後、一回、病院へ行けばそれで終わりだと先生が言っていましたから。」
佳代が言うと、北田が急にニヤニヤしながら側に近づいてきて、佳代の肩を抱いていきなりキスをした。佳代はあまりの急な出来事でかわす暇もなく怖くて、体が固まって動けなかった。夜のお店のカウンターの奥の事務所は薄暗く狭い、どっちの方へ逃げたらいいのかも佳代は分からなかった。
「山下佳代さんだったね、今から俺の彼女にならないか?」
大人しそうに見えた北田は豹変したのだ。佳代は怖くて慌てて、その場から逃げた。事務所から出た場所が客の居るカウンターの奥の出口で、まだ客が座って飲んでいた。事務所に入ったのは店の入り口付近だったと思う。早く外に出たくて店の入り口まで速足で歩いて、店を出た。
佳代は怖くて気持ち悪くて、勢いよく走って松屋町まで帰った。アパートに戻ると、夏美ちゃんは眠っていたので声をかけず、一人で銭湯へ行った。何度も口のあたりを石鹸で洗ったが、佳代の口にあの男の口が、考えるだけでムカムカしてくる。北田の口がこんにゃくの様な感触が数日間消えなかった。
***
佳代がかかっている近所の外科へ最後に診てもらおうと出かけて行った。
後一度だけ診せたら終わりだからと、前回、先生が言っていたので佳代は最後の診察を早めに終わらせて今回の事故の事を全て忘れたかった。
病院で受付を終わらせて待合室で椅子に座って待っていると、診察室から出てきた男性に見覚えがあった。あの日のカウンターの中に入っていた優しそうな長身のバーテンさんだったのだ。
「あっ。君は? あの時の女の子だね?怪我はもういいの?あの日、真っ青な顔で出てきたから…。泣きそうな顔が気になっていたんだよ。大丈夫だった?」
よく見るとあの時の、若い男性は端正な顔をしていて優しそうな目が佳代に安心感を与えた。そして、爽やかに笑顔で話してくれたので北田の事は思い出さないように努めた。
「はい。ありがとうございます。もう、治っているって先生も言ってくれたので今回で終わりです。」
佳代は明るく元気な声で、笑顔で返した。
「それは良かったね。実は、僕は心配していたんだよ。君が事務所に入って行った時から。あの、北田は女癖が悪くてね。もうないと思うけど、夜の店には近づいたらいけないよ。」
その若い男性は、左の指に包帯を巻いていた。佳代が男の指に気が付いて見ていると。
「あぁ~これね。包丁で切ってしまった、大したことはないけど、傷口が深かったので一応病院へきたんだ。僕はあの店では、ただの大学生のアルバイトだよ。バーテンは給料が高いからね。」
「それでも、この怪我じゃお酒は作れないしね、この辺が潮時かなぁ。では、またね。どこかで会うかも知れないね。僕も、この辺の近所のアパートに住んでいるから。」
そう言って、その人は帰って行った。この人と、もう一度どこかで会えたらいいなぁと思った。今まで佳代は、男の人と話す機会がなかったので、ドキドキしながら話していた。優しい目をした爽やかなバーテンさんは、佳代の胸を時めかせた。
***
数日が経過し、お休みの日の朝から佳代は、一人で地下鉄に乗って大阪北堀江の中の島図書館に来ていた。本を買うのがもったいないので、休みの日に三階にある図書館を時々利用している。歴史的建造物なので見学だけでも楽しめ周りの公園で一日時間をつぶすときもあった。
暑くもなく寒くもないちょうど良い気候で 、今の季節が一番好きだ。公園にはバラの花が満開だった。今回は、五冊借りた。二週間ほど猶予があるので期間内に読める数だけ借りている。
佳代は、本を持ってバラが見渡せる公園のベンチに座り借りてきた本の一冊を読み始めた。二時間ほど読んでいると佳代のお腹が鳴った。朝に菓子パン一個だけの朝食なので若い食べ盛りの佳代には足らなくていつも空腹だった。
「あのぉ~。写真を撮らせてもらって良いでしょうか? けして怪しい物ではありません。公園の薔薇の写真を撮っているのですが、薔薇と女の子の写真が撮りたいのです。もし、嫌だったら顔はフォーカスして分からなくして撮りますが?大丈夫でしょうか?」
キャップを目深にかぶった若い男性に声をかけられた。
キャップの下から穏やかな目をした男性は、丁寧な話し方で佳代の顔を覗き込んだ。目が合って、佳代は一瞬、男性の左ほほの赤いアザに視線が向くと男性は困ったような顔をした。
「あっ!良いですよ。私の顔がはっきり写っても、どうぞ自由に撮ってください。私は平気ですから。」
佳代は、男性のアザが赤くてきれいだと思った。初めて見るアザではなかったからかも知れない。田舎で幼馴染の奈美ちゃんが、同じような赤いアザが鼻の横にあったのを思い出していた。
奈美ちゃんは、いつもアザの事を気にしていてお母さんのお化粧を塗って学校にきているのを思いだした。お化粧の威力はすごいと思った。
読み疲れてベンチから一度立って両手を広げて佳代は、大きく深呼吸した。
すると、ずぅ~と、向こうの方から若い男性三人が歩いてきてこっちを見ている。
「あれぇ~!君。また会ったね。こんな所で読書なの?一人?」
佳代がもう一度会いたいと願っていたバーテンさんだった。他の2人は同年代の友達のようだったが、佳代が知り合いだと思ったのか、二人の友達は先に歩いて図書館の方へ歩いて行った。
「あっ!はい!偶然ですね。今日は店がお休みなので本を借りにきて、ここで読んでいました。」
佳代は焦っていた。今日の服装が普段着で、ちっともおしゃれをしていない。お化粧もせず、ほとんどすっぴんだったので真直ぐ顔を見られるのが恥ずかしかった。
「お休み?そうだったのか、君のお店は何のお店?あの病院の近くなんでしょ?」
「はい。化粧品店で住み込みで働いています。と、言っても今は近くのアパートに引っ越しましたけど。」
「そうかぁ。じゃ、今日は暇なんだ?良かったら僕と図書館の中の喫茶店でコーヒーでも飲もうか?ジュースでもいいよ、おごるから。あの二人の事は気にしなくて大丈夫だから。」
佳代はお腹が空いている事は恥ずかしくて言えなかったので、ぐ~っと鳴らない事を願った。
三度の食事は住み込みで働くお店で食べていたが、アパートに引っ越してからは、休みの日には自分で食べる。自炊をしていないのでいつも菓子パンだったのだ。早く一人で住める部屋が欲しい、自炊もできるアパートに引っ越したいといつも思っていた。
バーテンさんは佳代の大きなショルダーバッグを持ってくれて、歩きだしていた。本が数冊入っていて佳代には重かったがバーテンさんが軽々と持ってくれた。
佳代は、すっぴんでも可愛かった。
くりくりとした大きな瞳でスッとした鼻先が目とのアンバランスで知的でもあり愛らしくもあったのだ。佳代は、今回で三回目に偶然会ったバーテンさんだから、迷わず緊張しながらも後を付いて行った。
「僕の名前は、石田理です。大学四年生で来年卒業して就職するんだ。君の名前は?」
「私は、山下佳代です。十九歳になりました。田舎が鳥取なので大阪弁が苦手です。松屋町の化粧品店で働いていますが、時々イベントの時には、心斎橋のお店にも手伝いに行きます。」
「この間の、足のケガ。あの交通事故は、お店の友達と心斎橋に買い物に行く途中であの方の車に、でも、もう今は、まったく大丈夫なんですけどね。」
そう言って佳代は、ケガをしていた右足をくるくると動かして微笑んだ。
バーテンさんと向かい合わせて座るとなんだか二人の顔が真正面で恥ずかしかったが綺麗な顔をしているバーテンさんが素敵だなと思った。
ずいぶん前に艶ちゃんの彼氏さんと友達の大学生は、佳代の事を馬鹿にしたような喋り方で佳代の気分を悪くさせた。あれ以来、佳代は、大学生が苦手になった。今は優しい目で話しかけてくれるバーテンさんが好きだった。
「あの、バーテンさん!あっ、間違った。石田さん、お友達は放っておいて大丈夫ですか?」
「あぁ、いいんだ。三階の図書館に用事があって其々に、卒論提出の為に調べたい事があったから待ち合わせて来ただけなんだ。気にしないで、どうぞ、オレンジジュース飲んでよ。図書館には良く来るの?」
「はい。いつも一人できます。本が好きで、買うとお金がかかるから図書館はありがたいです。私の家、貧乏だったから集団就職で大阪にきました。自分の分からない事や難しい字も辞書で調べて納得するんです。一番楽しいのが読書です。」
佳代は、大阪に来て初めて口に出した事だった。自分の学歴の低さが自分自身を卑下して自信がなくなった。そんな経緯が艶ちゃんの彼氏さんの大学生の言葉だったのだ。それからは、自分を向上させるため分からない事は何でも調べて勉強しようと思った。
自分の事を偽らず飾らず本当の事を言った時、このバーテンさんはどんな事を言うのかと思った。少し怖かったけど、それで態度が変わったら仕方がない事だと佳代は思った。
「そっかぁ。一人で大変だね。勉強することはとてもいい事だから頑張ってね。図書館でも分からない事があったら僕が教えてあげるよ。お休みの日は何曜日?図書館に来ている時に又、会えるかな?会えるといいね。」
そう言って石田理は、立ち上がり伝票を取って会計の所へ行った。佳代は、バーテンさんの言葉を聞いて、石田理がもっと好きになった。
何故って?佳代の頭の中が、全くザワザワしなかったから!心も顔もきれいなバーテンさんを好きになってドキドキし、憧れにも似た感情が湧いてきて嬉しかった。