僕の失恋8 短編

 和歌山から名古屋に戻り、僕の部屋に帰ったのは、夜の十一時を過ぎていた。

 日帰りは若い僕でも疲れているのに、大阪に戻った母さんには体に堪えただろうと心配になった。 和歌山の社長が亡くなって、母さんもどれだけ辛かっただろうか。一度は愛した男だ、僕という子供までつくった人だったのだ。 僕に真実を話さなければいけない時がくるなんて母は、思ってもいなかっただろう。ごめんよ、母さん。

 社長が亡くなったことで、美子も美子のお母さんもどれだけ心細いだろう。旅館のこれから先の事も心配だけど、美子に真実をどう話していいのか僕は迷っていた。僕も辛いが、僕といずれは結婚できると期待している美子が可哀そうになった。

 今晩、遅くに電話をしてほしいと美子に言ったが、もう零時を回っている。美子も疲れ果てているのだろう、明日の夜にでも僕の方から電話をしてみよう。明日は僕も仕事が早い、先輩を待たせたら大変だ。僕は、明日の書類の準備と着ていく服を用意してシャワーを浴びた。

 翌朝の目覚めは、気分が良かった。昨夜は、いろんな事があったので頭の中を整理していると、眠れないと思いつつ、いつの間にかストンと眠りに落ちて朝まで目が覚めなかった。四月に入ると各支店も決算でバタバタすると先輩が言っていた。早めに出てコンビニで朝食のパンと牛乳を買って駐車場の車の中で食べていたら先輩がやってきた。

 「おう!朝ご飯は、今日もパンか!? 昼まで腹は持つのか? 正人、昨日は知人の御不幸で有給つかったんだろ?遠くまで行ったのか?お疲れさん! さぁ、出かけるか!今日は、買い付けの特訓をするぞ!仕入れが命だ!覚悟しておけ。」

 「はい。和歌山への日帰りですよ。さぁ、では行きますか!?今日も頑張って先輩にしごかれましょうか!?」

 先輩はいつになく明るかった。多分、奥さんと今朝は喧嘩をしていないな?僕は心の中で、独り言をつぶやいていた。先輩の明るい性格が僕の心を和ませてくれる有難い先輩だった。

 明日は金曜日、先輩はいつも木曜日になると何故か機嫌がいい。何故だろう?いつか聞いてみよう。そんな事を考えながら車は高速に入った。

 その日の夜、八時回って和歌山の美子に電話をかけた。 なかなか電話に出ないので一度切って三十分後にまたかけてみた。

 「もしもし。あっ、美子!さっき電話かけたけど出れなかったの?今、大丈夫?心配していたよ。昨日は何も手伝えなくてごめんよ。日帰りだから、母さんの体の事も心配だったんだ。まだ、片付けも終わっていないだろう?旅館の従業員の人たちの手伝いはあるんだろう?」

 僕は、和歌山の旅館の様子を思い浮かべていた。

 「正人。電話をありがとう。昨日はお疲れさまでした。大阪のお母さんも遠い所へきてくれてお礼を言っておいてね。今日一日、旅館の人達とお葬式の後片付けと、これから先の事を話し合っていたの。旅館を続けるかどうか。母がね、頗る回復が早くて退院の日が決まったの。」

 「今日、病院へ行って先生の話も聞いてきたのよ。退院してからの家での過ごし方や薬の事、これからの治療の事も。おかげさまで手術も成功してここまで元気になられるとは!と先生も驚いておられたのよ。正人、あなたに会いたいけど母が退院してきたら、家を空けられなくなるわぁ。一人娘の辛い所ね。」

 「今日の、従業員の人達と番頭さんの専務さんとの話し合いで、順調な運営が続いている旅館を閉める事はないのでは?と、言われたの。母も続けて欲しい、そのうち自分も手伝うからと言っているわ。母は、いずれは正人も帰ってきて旅館の後を継いでくれるのではないかと、結婚にちょっと期待しているのよ。」

 「ごめんなさいね。勝手な事を言っている母を止められなかったの。気にしないで!正人は名古屋での仕事が一番!今は、現実的に無理な事は分かっているのよ。あぁ!ごめんなさい、私一人で喋っているのね。」

 そう言って美子は笑っていた。父親が亡くなって失望しても、自分の置かれた立場やこれから先の生活の基盤を元に戻す事が美子には重要な事なのだろう。

 こんな美子に、僕たちの真実を打ち明けるのは辛い。何をどう話して良いのか見当がつかなかった。美子を傷つけない様に話すには?僕は美子の話し声を聞きながらずっと考えていた。そして、昨日、美子の父親のお葬式が終わったばかりだ。

 急いで話す事はないだろう。美子のお母さんも退院してくるそうだし、番頭さんや従業員さん達と旅館を運営していく事で頭がいっぱいな美子に今、辛い思いをさせるべきではないと僕は考えた。

 「そっかぁ。お母さんの退院が早くなって良かったな。これからは、ますます忙しくなると思うけど体に気を付けて無理をしないでマイペースで頑張れよ。」

 「僕もやっと名古屋で社会人として慣れてきたところだ、忙しい毎日だけど遣り甲斐のある仕事だと思っているよ。お互い、これからも頑張ろう。美子、体に気を付けろよ!無理はするな!」

 それだけ言うのが僕の精一杯の言葉だった。しかし、いずれは美子に話さないといけない事だ。何時か分からないが逃げれない時がくるまで、このままの状態でやり過ごそうと心に決めていた。

 ベランダ越しの窓の外は朝からずっと雨が降っている。空気がジメジメしている六月も僕にとってまんざら悪くはない。

 名古屋の公団での住み心地も気にいっている。母と2人で暮らしていた大阪の帝塚山のマンションとは違い、公団住宅は散歩コースにも窓の外をのぞいても、樹々や季節ごとの花が花壇で揺れていて環境が良い事に最近、僕は気が付いた。

 今日は、久しぶりの休日だ。ここの所毎日、残業が続いていて朝の目覚めが気だるい日が続いていた。美子からの時々くるメールには、旅館の運営の様子が詳しく書いてあるが以前の様に、僕たちのこれからの事は書かなくなっていた。

 僕が曖昧な返事を書いているので美子は何かを察しているのかも知れない。

 旅館は、美子が若女将になってからというもの若い客の獲得が増えて雑誌にも取り上げられて有名になっていた。昔からある旅館だが、若い美子が新しい発想とアイディアであっという間に注目される旅館となってきていた。

 お互い仕事に打ち込んで時間が過ぎる事で見えてくるものもあると僕は思っている。

 さて、雨の中だが空っぽの冷蔵庫の中に貯えておかないと栄養不足になりかねないぞ。まずは、食料の調達に近くのスーパーに出かけようかなと思って着替えているとテーブルの上の携帯が鳴った。

 大学時代の友達、大沼京子だった。京子は時々忘れた頃に電話がかかってくる。

 「おはよう!正人。元気にしてる!? こっちが何も言わないと正人はまったく連絡をくれないねぇ!ちゃんと、生きてるのかね? 私は日曜日も仕事だよ!ちょっと今、さぼって正人に電話しているけどね。たまには、正人の方からかけてきてくれてもいいんじゃないのかなぁ!」

 朝から京子の明るい大きな声が、ボーっとしていた朝にはこっちまで元気が出てくる。最近、夜に一人で悶々と考える日々が多かったせいだろうと思った。

 「今度、四年生の時、時々つるんで遊んでいたメンバーからお誘いがあったよ!正人にも連絡きてる?合コンのメンバーが足らないからどうか?ってね。正人のお気に入りだった礼子さんも今回は登場するってさ!どう?」

 「へぇ~!マジっすか?珍しいねあの秀才が登場するとはね、誰かが強引に誘ったんじゃないの?彼女も社会人になって柔軟になったってことかな? それ、何時の話?最近、残業が多いから僕は、行けるかどうか分からないけど念のため日程を聞かせてよ!」

 「そっかぁ。正人も一端の社会人になったんじゃない!分かった。大学生の時と違って其々の日程を合わすのだ難しいらしくてね、それでも息抜きで楽しもうよ。と話がなったわけよ。来月末の土曜日の七時集合らしいよ。場所はまだ決まっていないって。決まったらまた連絡するからって事で、出席かどうかだけね先に須田に知らせて欲しいってさ。」

 「了解!考えてみるよ。ありがとう。じゃ、仕事、さぼるなよ!またね。」

 電話を切った後、僕は何かが僕の心の中で、吹っ切れたような気がしていた。

 美子との事は自分の幼少の頃から、僕の思春期に抱き続けてきた、掴み切れなかった幻想だったのかも知れない。

 母も、苦しんで生きてきた和歌山の時代から僕の成長を見て解放され、新しい思いを持って大阪に出てきたのだ。今は愛する人と幸せに第二の人生を謳歌している。そう考えると人生って明日の事は分からないのだ。だから面白い。

 今年も、後数日という時に母からハガキが届いた。

 帝塚山の父と一緒にヨーロッパ旅行の途中だと書いてあった。優しそうな義理父は母を慈しむように見ているのが印象的なツーショットだった。

 最近、美子からのメールも来なくなった。

 僕は思っている、勇気を出して、「僕たちは義理の兄妹だ」と秘密を告白してまで、わざわざ美子を傷つけなくても、季節が廻り、このまま抗わず流れに身を委ねるように生きていこうと思う。

 

 

 


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ

大阪暮らし6 一人暮らし

 「佳代ちゃん、ちょっとこっちに来て!皆に紹介するから。自己紹介をしてもらおうかな?店を開ける前だから、簡単にね!」

 佳代が天王寺の化粧品店「コスメクラブ」での初出勤の日、社長である北雄三がシャッターを開ける前に店の女の子たち八人を集めた。

 「山下佳代と申します。歳は十九歳です。松屋町の化粧品店から、こちらでお世話になる事になりました。どうぞ、皆さんよろしくお願いします。」

 佳代は深々と頭を下げた。社長と二人並んで店の女の子八人の前で対面していた。

 「武田さん!これから先、佳代ちゃんの事いろいろ教えてあげて下さい。アパートも同じだから、そちらの方も見てあげてね!あぁ~。それから、順番に自分の名前を言って佳代ちゃんに教えてあげて!」

 社長が全員を見渡した後、一番右に居た武田さんに声をかけた。優しそうな武田さんは一番年長の様に見えた。八人は、一人ずつ自分の名前を教えてくれた。

 「よろしくお願いします。」

 佳代は、もう一度頭を下げて挨拶をした。そうこうしている内に開店の時間になり其々の持ち場に散って行った。朝、店に入るのが九時。掃除や化粧品の補充、ミーティングが終わると十時になり店を開ける事になっている。

 「さぁ、今日も頑張って店を開けるよ!」

 武田さんが皆さんに声をかけてシャッターを開けた。店の中は、化粧品の陳列されているショーケースのカウンターが、店入り口から入ると右側に一つ、左側に一つ、中央に二つ並んでいる。従業員は薄いピンク色の制服を着てカウンターの中に入る。立ち位置の後ろにはブランドごとに商品が並んでいる天井まである高いケース棚がある。

 「佳代ちゃんは、入り口左側のカウンターに私と一緒に入ってね。カウンターには大体、いつも二人で入る事になっていて助け合って化粧品を販売するのよ。分からない事があったら何でもいいから私に聞いて!」

 武田さんが佳代に気を使って言ってくれた。

 「はい。ありがとうございます。私、まだまだ化粧品の事分からない事だらけで初心者なので教わる事がいっぱいあると思います。よろしくお願いします。」

 一日も早く、化粧品の置いてある位置や皆さんの名前を覚えるのが、慣れる事の一番早道と決めて、休憩時間に武田さんにもう一度確認してメモを取った。佳代は、今までの環境とは全く違い、慣れるのが大変だろうと思うが、今までの自分よりも少しだけ向上していると思った。

 「あっ!佳代ちゃんだったね、朝に挨拶したけど私は山下美緒、美緒ちゃんと呼んでくれたらいいよ。佳代ちゃんと同い年だからよろしくね。アパートも同じだと思うから。」

 「あっ。はい。ありがとうございます。よろしくお願いします。」

 佳代は、同い年だという美緒が声をかけてくれて少し緊張がほぐれた。印象から見て、佳代と一番気が合いそうな雰囲気で内心嬉しかった。

 店を出て、隣の細い階段を上がると二階の食堂が店の休憩場所になっている。食堂の奥が従業員のロッカールームでここで制服と着替えて店に入るのだった。

 お昼休憩は、四人ずつが交代で取っていた。自由に自分で弁当を持ってきてもいいし、側の商店街で総菜を買って食べても良かった。以前の松屋町の店では奥さんが用意してくれたご飯だけでは足らなかったのを思い出す。買いに行く自由もなかったのでいつもお腹が空いていた佳代だった。

 初日の一日は、あっという間に過ぎて閉店まで時間が経つのが早かった。

 化粧品の販売はまったくで、入り口に積上げているハンドクリームや大きな籠の中の安い化粧水、小物類だけで一日が終わった。お客様に化粧品名を言われても、陳列棚のどこにあるのか分からないのでドキドキして緊張が止まらなかった。

 今度、朝早めに来て陳列棚の商品の位置を覚えようと考えていた。

 「佳代ちゃん、一緒に帰ろう。アパートまでの近道や商店街の中を通るからおすすめのお店、教えるよ。」

  ロッカールームで着替えていると、お昼休憩の時話しかけてくれた美緒ちゃんが佳代に声をかけてくれた。

 「あっ。ありがとう。美緒ちゃん。ホント、嬉しいよ。私、心細かったんだ。」

 二人は並んで店を出て、賑やかな通りを抜けて、商店街の入り口からゆっくり歩いた。ビルの中にある店の並びは、旅行会社や呉服屋さんや大きなレストランがならんで都会的だが、少し外れた場所にある商店街に入ると佳代はホッとする。

 「そうだ!さっき帰りに武田さんに頼まれたんだよね。佳代ちゃんにアパートの事や買い物の事を教えてあげてね!同い年の美緒ちゃんと気が合いそうだから。お願いね!って。言われちゃったよ。

 今晩のおかず何にする?買い物して帰ろう。佳代ちゃん何号室?私は二階の十一号室だよ。」

 「えぇ~!良かった。私は、二階の十号室なの。嬉しいわ!美緒ちゃんの隣の部屋だよ。今日は、私の部屋で美緒ちゃんも一緒に食べない?晩ごはんカレーにするよ。ご馳走します。今日はいろいろお世話になったし、食事の後にお風呂屋さんにも一緒に行ってくれたら嬉しいんだけどなぁ。」

 「分かった。じゃ、お肉屋さんと八百屋さんに寄ろう。カレーのルウも八百屋さんに置いてあるよ。佳代ちゃん!お米は買っている?」

 「大丈夫だよ。引っ越しの前に調味料やお米は買っておいたんだよ。調味料と言ってもそんなに種類はないけどね、何とかなるでしょ。でも、美緒ちゃんの口に合うかな。ちょっと心配。」

 長い商店街を抜けると佳代が引っ越してきたアパートがある。「みどり壮」には、入り口を入ると管理人の部屋があり小窓の棚には黒電話が置いてあった。管理人のおばさんは、一度会ったきりだが怖そうな顔だった。

 黒電話の横の小窓はいつも閉まっているので居るのかどうか分からない。

 松屋町で知り合いになったお好み焼き屋のおじさんが、今まで住んでいたアパートの小さな箪笥やお布団を、このみどり壮まで軽トラックで運んでくれたのだった。その時に会ったきりで、見るからに厳しそうなおばさんのイメージだった。

 お風呂屋の様な大きな下駄箱が何列も並び、廊下を挟んで右に五部屋、左に四部屋。隣が共同のトイレになっていた。二階にも同じような部屋数で廊下を挟んで部屋があるのだろう。

 佳代の部屋は、階段を上がってすぐの二階の十号室だった。料理の経験は、住み込みで働いていた松屋町の店で奥さんの代わりに時々手伝っていたので自分の食べる分くらいは作っていた。

 引っ越して来てからは自炊だと思い台所用品を最低限は揃えてあったので大丈夫だろう。

 「美緒ちゃん、カレーを作るよ!私は、牛肉は使わず豚肉で作るのが大好きなの。美緒ちゃん豚肉は大丈夫?食べられる?」

 「佳代ちゃん、ありがとう。私豚肉大好きだよ。それに、カレーも大好物だぁ!」

 そう言って美緒ちゃんは満面の笑みを佳代に向けた。

  夕飯が終わり、二人は近所にある銭湯へ行った。今度のお風呂は湯舟が三つあったので面白いと思った。小さい湯舟は多分小さな子供用なのかなぁ。佳代は、お風呂につかると一日の疲れがとれて気持ち良かった。新しい生活が始まって、こっちに引っ越して来て初めてリラックスできた時間だった。

***

  九月から天王寺にある今の、このお店に来てからというもの店とアパートの往復で毎日の時間が慌ただしく過ぎて佳代の新生活も少しずつ慣れた秋口の十一月終わり頃、バーテンさんから手紙の返事が着た。

 「佳代ちゃん、お手紙をありがとう。元気にしていますか?僕は、やっと就職活動も終わってね、今ゆっくりと手紙を書いています。図書館へは時々行っています。いつも佳代ちゃんが来ていないかなぁと思って公園の辺りを歩くけど、居なかった。」

 「僕は来年の春から大阪に本社がある建設会社に就職が決まったよ。今はアルバイトを頑張っている。佳代ちゃんと初めて会ったあの店、クラブのバーテンを一度、指のケガでやめたけどバーテンの人手が足らなくて困ったマスターが給与をアップするから来年の春まで来て欲しいと言われてね、また復帰しているよ。」

 「僕の家もそんなに裕福な家じゃないからね、奨学金を借りて大学卒業までアルバイトをして頑張ったんだ。佳代ちゃんも頑張り屋さんだけど僕も同じさ。会社勤めになったら毎月、借りている奨学金を返済し続けなくちゃいけないから、いったいいつまで返済があるのか気が遠くなるよ。」

 「そうそう、話が変わるけど今年のクリスマス、十二月の二十五日、夜七時に僕と一緒にクリスマスパーティーに行ってくれないかな?心斎橋の小さなお店を借り切って大学の友達グループでパーティーをやるんだけど。

 それまでに、一度会いたいね。佳代ちゃんのお休みの日はいつ?中之島の図書館の、あの公園で待ち合わせたらどう?一緒にご飯食べて映画でも観ようよ!?返事待っています。 石田理 」

  手紙を読みながら、胸がドキドキしていた。佳代が手紙を書いて三か月が過ぎる。もう無理かも知れないと、一度は諦めかけた恋だった。バーテンさんも毎日、頑張っているんだと思うと自分も早く一人前の化粧品アドバイザーにならないといけないと、力が湧いてきた。

 「バーテンさん、お手紙をありがとうございます。本当に嬉しかったです。私のお店の定休日は毎週水曜日です。月が変わって十二月、最初の水曜日か次の水曜日でどうでしょう?中之島の図書館のあの場所で私、二週続けて水曜日昼前に待っています。来れる日に来てください。もし、両方とも都合が悪ければまたお手紙を下さい。山下佳代。」

 書き終わるとすぐ、近所のポストまで走って行った。外は寒く羽織って出たコートの衿を立てた。佳代の嫌いな冬の季節がまたやってくる、今年の冬は佳代にとって初めてのクリスマスパーティー!それも、大好きなバーテンさんと一緒に。今度、映画も食事もできるんだと思うと気持ちが高ぶって寒いのに顔だけ熱っていた。


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ

大阪暮らし5 化粧品店

「夏美ちゃん、今日は佳代ちゃんと一緒に支店の方、任せてもええやろか?私なぁ、今日朝から人と会わなあかんねん。店の隣の薬局の店長に話てるから店、シャッター開ける時に声かけてや。頼みます。」

 朝食の後、秋ちゃんが夏美ちゃんに話しているのが聞こえてきた。佳代は台所で食器の後片付けをしている。今日は、心斎橋の店で二人っきりで夕方まで大丈夫だろうか?佳代はちょっと不安になった。

 最近やっと化粧品の名前や値段、どういう効果があるのかとか覚えたばかりだった。この松屋町の本店の方の化粧品の棚の中のブランドごとの位置を覚えて、支店の方の商品の位置がまだ覚えきれていない。

 資生堂がメインでカネボウ、マックス、コーセ、他にも数種類の化粧品のメーカーを置いていた。勉強会には、メインの化粧品会社だけ月に一度本社まで通っている。佳代は、初等科中等科と終わった所だった。

 「佳代ちゃん、聞こえてたやろ。今日は私と二人っきりやから、気引き締めて頑張ろな。大丈夫やよ、私がおるから心配いらん。」

 佳代の不安そうな顔を見て夏美が声をかけた。心斎橋店の店に着いたのは九時前、隣の薬局の店長に声をかけて店のシャッターを開けた。店の中に入り、化粧品の並ぶガラスのケースや棚を拭き掃除した後、商品の品出しを終わらせて店の外も掃除をしていると開店の十時になった。

 心斎橋商店街中ほどにある、四つ角に位置する薬局と一緒のフロアーがある化粧品の店舗だ。土日になるとたくさんの人で溢れて歩くのにも大変な場所であった。今日は平日なので客足もいつもよりも少ないと思う。だから秋ちゃんも二人に任せてでかけたのかと佳代は思っていた。

 昼前になると徐々に客が入ってきた。もうすぐ夏、化粧水や日焼け止め、ファンデーションも夏様にチェンジする人も多くその人に合った色を選ぶのも仕事。佳代は化粧品が好きなのだが、まだ新米なので自信をもって接客ができていないと自分では思う。不安だがそれを表面に出さないのがプロだと先生に教わっている。

 「佳代ちゃん、今のうちに裏に入ってお昼済ませといで。交代で食べよう。奥さんが作ってくれたおにぎりが棚の上にあるから。」

 夏美ちゃんが声をかけてくれた。客はさっき出て行った人が最後で、今は店には誰も居なかった。秋ちゃんと一緒の時には、夏美ちゃんと佳代と二人で休憩をとっていた。お昼ご飯は時々奥さんがおにぎりを作ってくれるのだが、ない時には近くで軽い軽食を買ってきていた。

 「いつもみたいに長く休憩とったらあかんよ、食べたらすぐに出てきてや。交代で私も早めに食べてくるわ午後から又、忙しくなるんやで。」

 「はい。ありがとう。分かりました。夏美ちゃん、お先に食べさせてもらいます。」

 佳代はそう言って奥に入った。午後から、夏美ちゃんの言った通り夕方まで客足が途切れなかった。

 「すみません。男性用の化粧水とヘアリキッドを下さい。」

 若い男性が夕方の客足が引いた店に一人で入ってきた。

 「あっ!バーテンさん!あっ、違った石田理さん。いらっしゃいませ。吃驚しました。化粧水とリキッドですね?今、使っているメーカーは分かりますか?」

 佳代は、驚いたが嬉しかった。又、バーテンさんに会えたと思うと自然と笑みが出た。先日の図書館の時一緒に喫茶店でオレンジジュースを飲んだ時を思い出した。

 「先日は、ジュースをご馳走様でした。」

 「あっ!君か?佳代ちゃんだったね、こちらこそ。話ができて楽しかったよ。誰だか分からなかったよ、今日はお化粧をしているんだね。それに、髪の毛の色が明るくなっている。別人だね。あっ、化粧水もリキッドも資生堂の安いやつ!あ、それそれ!」

 石田理は、男性化粧品が並ぶ棚の商品を指さした。そう言うと恥ずかしそうにポケットから財布を出し、夏美ちゃんが立っているレジで会計を済ませて笑顔で帰って行った。

 「佳代ちゃん、あの人誰なんよ!?佳代ちゃんも隅に置けへんなぁ。どこで知りおうたんやの?」

 夏美ちゃんには、何も話していなかった。事故の示談に出かける時に付き合ってとお願いしたが夏美ちゃんは、風邪で行けなくなったのでその後の話を一切していない。

 「ほらぁ~この前、夏美ちゃんが風邪をひいて寝込んでいた時に私一人で交通事故の示談にでかけた時の店にいたバーそテンさんです。あっ、でも本当の水商売の人ではなく、大学生のアルバイトだったそうです。今は指を怪我して辞めてしまったと、この間、図書館で会った時に言っていましたよ。」

 「え~図書館でも会うたの?喫茶店でジュースおごってもろうたん?秋ちゃんや奥さんには内緒やで、うるさいからな。そうそう、今日、秋ちゃん前回のお見合いが上手く行って結婚が具体的に決まったらしいでぇ。今日、その話ででかけたんちゃうかな?」

  「秋ちゃんの結婚が決まったら、この店は無くなるかも知れへんなぁ。佳代ちゃんも次の働き口を決めてた方がええと思うよ。急にそうなった時はお互い困るやろ。私は心当たりがあるから、ええねんけどね。アパートも引っ越さなあかんようになるやろうなぁ。」

 佳代は、夏美のいきなりの話でどうしていいのか分からなかった。そうかぁ、秋ちゃんが結婚したら、この店も閉めるのか。本店の方は客が少ないから従業員は要らないだろうと思ったら、アパートも住め無くなって佳代は行くところがない。閉店の時間まで客は無かった。

 「さぁ、レジの集計も終わったから、佳代ちゃん松屋町の店に戻ろう。多分今日は夕ご飯は、また出前かもよ!?」

 夏美ちゃんの言った通り夕ご飯は出前だった。

 「夏美ちゃん、佳代ちゃん、ちょっと話があるからこっちにきてくれへんか?これからの事やねんけどな。実は急やけど、秋ちゃんが結婚したら店を両方とも閉めようと思ってんねん。二人とも急がへんけど新しいアパートも仕事先も今年いっぱいで決めて欲しいんや!悪いなぁ急な話で。」

 台所で洗い物をしていた佳代と夏美が食卓テーブルの前で座ると同時に旦那さんが話始めていた。秋ちゃんと結婚する男性は大学病院のお医者様で、資産家なのに家族を最近亡くしたとかで、この松屋町の本店を閉めて、この家族と一緒にこの家を増築して生活する事になったとか。

 アパートに戻り、秋ちゃんは玉の輿になったと夏美ちゃんが一人騒いでいた。

 「今年いっぱいって、後半年の間に仕事先とアパートを探さないといけないのよねぇ。夏美ちゃんは、思い当たる働き口があるんでしょう?私はどうしようかなぁ。せっかく化粧品の事を勉強してこれから頑張ろうと思っていたのに。」

 佳代は、情けない顔をして夏美ちゃんに話していた。そうだ、また艶ちゃんに相談してみよう。艶ちゃんなら大阪の化粧品店の旦那さんを良く知っていると言っていた。せっかく化粧品に興味を持って勉強しているのだ今更別の仕事を探すのはもったいないと思った。

 佳代は、艶ちゃんに手紙を書いた。今のこの店の状況と、これから先の佳代の勤め先に心当たりありませんか?と相談してみたのだった。すると、2週間ほど経って艶ちゃんから返事がきた。相変わらず優しい書きだしで佳代の事を心配してくれて、お姉さんの様に気遣ってくれていた。

 それは、天王寺の商業ビルの中に入っている化粧品店で、店員が足らないので探しているという話だった。その事業主は大阪に5か所に店舗を持つ大きなお店で従業員もたくさん雇っているという話だった。

 それに、住むアパートも世話をしてくれるとの事で佳代は安堵した。とんとん拍子に話が決まり、今度の休みの日、艶ちゃんと一緒に社長に会いに行く事になった。

 艶ちゃんは、最近化粧品店を辞めて梅田の北の大きなクラブで本業として働き始めたと書いてあった。そのお店に以前勤めていた化粧品店の事業主さん、ご主人さんが艶ちゃん目当てに集まるらしい。艶ちゃんの美貌なら男性は喜んで通うだろうと佳代は思った。

***

 「佳代ちゃん綺麗になったね!お化粧、上手になって!今日は、佳代ちゃんに紹介するお店の旦那さんに会ってもらうからね、佳代ちゃんは何も心配いらないから。大丈夫だからね。」

 艶ちゃんと待ち合わせたのは、天王寺の駅近くの喫茶店だった。佳代に分かりやすい様に地図も書いて手紙の中に入れてあった。艶ちゃんは以前に増して抜けるような白い肌で綺麗で色っぽく女らしかった。佳代が新しく勤める事になるお店がこの近くだからと、後で見に行こうと艶ちゃんは言ってくれた。

 「やぁ。君だね。何歳?可愛いね。メーカーの勉強会はどこのクラスまで進んでいるのかな?美顔技術も勉強してる?」

 店に入ってきた男性は、艶ちゃんと笑顔を交し椅子に座るといきなり佳代の顔を見て喋り始めた。今のお店の旦那さんよりもずっと若い旦那さんだった。艶ちゃんは、社長さんと呼んでいた。

 佳代が返事をする間も待てないように、側にきたウエイトレスさんにコーヒーとサンドイッチを頼んだ。

「はい。山下佳代といいます。年齢は十九歳です、年が明けると二十歳になります。化粧品の勉強会は初等科と中等科、高等科はまだですが先に美顔技術も勉強しました。今は時々お客様に美顔器を使って肌のお手入れをやらせてもらっています。」

 緊張しながらも、はきはきと答えられてホッとした佳代だった。今日は、丁寧に化粧もしている。アイシャドーもアイライナーも眉毛も整えてアイブローペンシルで整えた。最近は流行りの付けまつ毛も、短くカットして目立たない様に付けていた。髪の毛も新製品のヘアカラーで明るい目の色を染めているのだ。

 佳代の最近の顔は、すっぴんの時と違い、大人っぽい女性に見えた。大きな瞳とツンと細い鼻先、整った顔が一段と若い女性らしく明るく華やかに綺麗だった。そんな佳代を一目見て気に入ったのだろう、社長が艶ちゃんに言った。

 「艶ちゃん、決めたよ。山下さんは、うちに来てもらおう。アパートもお世話するよ。いいね、佳代ちゃん!九月から来てもらえるかな?ここの阿倍野のお店の近くにアパートが有ってね、店に勤める他の娘たちも住んでいるので一応、寮的な感じだけど一人ずつ一部屋あるから心配いらないよ。」

 「もちろん自炊もできるから。お風呂は近くの銭湯へ行ってもらう。すぐ近くに銭湯もあるから。なに、大丈夫さすぐに慣れる、いい娘ばかりだから心配いらないよ。」

 若い社長は、優しかった。本当に支店がいっぱいあるお店の社長なのかと佳代は感心したし、艶ちゃんにも感謝の気持ちしかなかった。

 「艶ちゃん、今日はいろいろとありがとうございました。いつも艶ちゃんに甘えてばかりで感謝しています。私、一生懸命働いて艶ちゃんの名前を汚さない様に頑張ります。あ、それから、以前、艶ちゃんの彼氏さんに私の傘を届けてもらってありがとうございました。お礼、遅くなってごめんなさい。」

 社長が喫茶店を出た後、二人残って社長が注文してくれたサンドイッチを食べながら佳代は、艶ちゃんにお礼を言った。

 「あぁ~あの彼ね。もう別れたの。彼は大学生だったでしょう、優しかったけどまだ子供っぽくって。彼とは、店で知り合ったけどお金持ちの息子は大変よね、家でも期待されていて。」

 艶ちゃんは、言葉の途中で声が小さくなった。一点を見つめながら何か考えているようだった。艶ちゃんにも辛い事があったのだろうと佳代は深く聞かないで曖昧に、あいずちをうつだけだった。

***

 その夜、松屋町のアパートに戻り夏美ちゃんに今日一日あった事を報告した。新しい勤め先や今度住むアパートの事、若い社長の事も話した。

 「そっかぁ。佳代ちゃんも決まったんやねぇ。実は、私も新しく勤める店が決まったんよ。化粧品店じゃないんよ。実は、いつも遊びに出かけていた店で雇ってもらえるようになってん。」

 「心斎橋から宗右衛門町に入る通りのクラブ!大きな店じゃないけどなぁ雰囲気がいいんよ。佳代ちゃんも落ち着いたら一度、店に遊びにきてな。夜、出歩かん佳代ちゃんやけど、一度くらいは、私に会いに来てや!」

 夏美ちゃんは、佳代に明るい声で何か吹っ切れたように報告してくれた。二人とも、先の事を考えて少し寂しい気がしていた。

 「佳代ちゃん、銭湯へ行こう。今日は、帰り、お好み焼きをおごってあげる!お風呂屋さんの横の路地を入ったらな、美味しいお好み焼き屋さんがあってな。前に一度食べた事があるんよ。めっちゃ美味しかったから期待してもええよ!」

 松屋町の店での生活も後一カ月となった。最近は、本店ではなく、佳代は心斎橋の店を手伝って三人で最後まで頑張ろうと話している。

 「いらっしゃいませ。化粧水ですか?今の季節はこちらの商品がお勧めですよ。さっぱりタイプの化粧水ですけどね、付けた後さっぱりしているのに、肌に残るしっとり感が今、一番良く売れている商品なんです。お値段もお手頃ですしね。」

 秋ちゃんがお客様の手の甲に、コットンに浸した化粧水をパタパタと付けていた。この勧めている商品は、今の時期のメーカーのお勧め商品で販売員一人何個売るのかを競うコンテスト商品だった。

 店内に入っている、お客様を夏美ちゃんと佳代も接客対応していた。時々、こんなコンテストがメーカー主催であった。佳代は、以前ハンドクリームの販売コンテストで優秀賞をもらった事がある。

 「すみません。ヘアリキッドを下さい。」

 佳代がお客様のレジを済ませてカウンターに戻ったと同時に見覚えのある男性。それは、石田理さんあの、バーテンさんだった。佳代は、嬉しかった。

 「はい。いつもありがとうございます。コレですね?」

 佳代は、レジを済ませて石田理さんに商品を渡して、小声で言った。

 「私、もうすぐこの店を辞めます。秋から、天王寺のビルの中にあるお店で働きます。今度お手紙書いてもいいですか?もし、良かったらこのメモにバーテンさんの住所を書いてもらえませんか?迷惑だったら、無理しなくて大丈夫ですから。」

 佳代は、秋ちゃんと夏美ちゃんがまだ他のお客様の接客をしているのを横目で見ながら石田理さんに話した。理さんは佳代の目を見ながら微笑んで自分の住所を書いてくれた。佳代のアパートからそんなに遠くない場所の住所だった。

***

 天王寺に引っ越す三日ほど前に佳代は石田理さんに手紙を書いた。

 「こんにちは。先日は、突然住所を書いてくださいとお願いしてごめんなさい。びっくりしたでしょう。天王寺に引っ越したらもうバーテンさんに会えなくなると思ったら、私、咄嗟にあんな事言ってしまって恥ずかしいです。」

 「最近は、図書館にも行けていません。新しく引っ越す天王寺のお店に慣れてきたらまた、休みの日に図書館に行こうと思っています。それまで頑張って環境に慣れて、仕事を覚えないといけません。天王寺の化粧品店は今の店と規模が違って人数も多くて不安です。でも、私、頑張ります。」 

 「早く一人前になって大人の女性にならなくちゃね。石田さんも来年は大学を卒業して就職ですね?体に気を付けて頑張ってください。また、手紙を書きます。山下佳代。」

 佳代は、手紙を書いた後心配になった。ちょっと馴れ馴れしいかな?でも、数回バーテンさんは、店にきてくれたし、図書館ではジュースもおごってくれた。あれはデート?そう思いながら佳代は、胸のあたりがドキドキしてキュっとした。


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ

大阪暮らし4 大好きなバーテンさん

 「佳代ちゃん、今日は悪いけど店の手伝いはええから、秋ちゃんに付いて行って心斎橋の支店の方を手伝うてやってくれへんか? 心斎橋の店が今日は、売り出しやから夏美ちゃんだけやったら手が足らんかもしれへんからなぁ。」

 座敷の食卓で家族だけ食事中の奥さんが箸を置いて台所の方へ話しかけてきた。

 さっき朝食の手伝いを終わらせて、台所で夏美ちゃんと私の分の朝食を用意していた時、引き戸越しに話しかけられた。

 「はい。分かりました。早く片付けて秋ちゃんと夏美ちゃんと一緒にでかけます。」

 私と夏美ちゃんは急いで朝食を済ませた。佳代は、たまに心斎橋店で手伝っている。化粧品の勉強にもなるし、賑やかな通りはいろんな人が店に入ってきて楽しい。

 出かける準備ができたところ、出がけに、先日の男性から電話があった。交通事故を示談にしたいので一度会って欲しいとの事だった。佳代は、交通事故というほど大袈裟な事ではない。

 軽い捻挫だったし、すぐに治っていたので忘れていたが大切なお気に入りの靴を弁償してくれると言ったので佳代は、会う事にした。

 奥さんには足のケガの事は、言っていなかったので電話の後、説明が大変だったが店に出かける前で急いでいたので、もう済んだ話だとごまかした。

 数日後、会う場所は、心斎橋のお店らしい。

 その男性が指定していた場所が心斎橋の繁華街で地理的には大丈夫の佳代だったが、気になるのが指定の時間だった。夜の繁華街には出かけた事がないので夏美ちゃんに付き合ってもらえるように誘っていたのに、当日夏美ちゃんが風邪で行けなくなった。一人心細いが出かけるしかない。

 お店は繁華街から少し入った通りのクラブだった。佳代はまだ未成年、十九歳になったばかりの女の子。ドアを開けるのに勇気がいったし、怖かったが思い切って重いドアを押して中に入った。

 「あの~。すみません。今夜、九時に店に来て欲しいと北田さんに言われて来た、山下佳代といいます。北田さんはいらっしゃいますか?」

 佳代は、勇気を出して薄暗い店のカウンターの奥に立っていた男性に声をかけた。

 「あぁ。君が交通事故の相手だったのか?まだ未成年のように思うが君は何歳?こんな大人の店に入るには勇気がいっただろう?待ってて、すぐに呼んでくるから。」

 背の高いスラっとして優しそうな顔をしている男性が奥に入って行った。多分、バーテンさんだろう。カウンターには人影が二名。お客が入っていたが入口より遠い席だったので顔も分からなかった。

 「あっ、君か?今日はわざわざ来てもらってありがとう。ちょっと奥の部屋に来てくれないか?」

 北田は、そう言って佳代を奥の部屋に案内した。

 「ここに、示談書がある。正式ではない用紙だが、俺が書いておいたものだ。君の名前とハンコを押して欲しい。」

 そう言って北田は、机の上に用紙を置いた。白紙の用紙に、簡単に書いていた。示談書と書いている。後は、佳代の名前とハンコの場所だけを鉛筆で丸く囲んでいた。読んでみると、保険は使わず、北田、本人の自費で治療代を払った事実を書いている。

 お見舞い金として、五千円の金額と、後々、不服を言わない事。と、書いてあった。多分警察には報告していないのだろうと思った。

 佳代の給料が住み込みで部屋代と食事代がタダで月、三千円だったので五千円は、佳代にとって嬉しかった。高卒の給与が七千円、大学卒の給与が一万円だったのだ。

 「すみません。私、名前は書きますが、ハンコは持っていません。」

 名前を書いた後、佳代が言うと北田がハンコの代わりに親指の印でも良いと言って朱肉を差し出した。佳代が親指を押してその書類を北田に渡すと、封筒に入っている五千円をくれた。

 佳代は、久しぶりに頭の中がザワザワしてドキドキしてきた。邪悪な空気で息苦しくなって急いで早くこの部屋から出て行きたかった。

 「ありがとうございました。私の足はもう治っているので気にしないで下さい。後、一回、病院へ行けばそれで終わりだと先生が言っていましたから。」

 佳代が言うと、北田が急にニヤニヤしながら側に近づいてきて、佳代の肩を抱いていきなりキスをした。佳代はあまりの急な出来事でかわす暇もなく怖くて、体が固まって動けなかった。夜のお店のカウンターの奥の事務所は薄暗く狭い、どっちの方へ逃げたらいいのかも佳代は分からなかった。

 「山下佳代さんだったね、今から俺の彼女にならないか?」

 大人しそうに見えた北田は豹変したのだ。佳代は怖くて慌てて、その場から逃げた。事務所から出た場所が客の居るカウンターの奥の出口で、まだ客が座って飲んでいた。事務所に入ったのは店の入り口付近だったと思う。早く外に出たくて店の入り口まで速足で歩いて、店を出た。

 佳代は怖くて気持ち悪くて、勢いよく走って松屋町まで帰った。アパートに戻ると、夏美ちゃんは眠っていたので声をかけず、一人で銭湯へ行った。何度も口のあたりを石鹸で洗ったが、佳代の口にあの男の口が、考えるだけでムカムカしてくる。北田の口がこんにゃくの様な感触が数日間消えなかった。

***

 佳代がかかっている近所の外科へ最後に診てもらおうと出かけて行った。

後一度だけ診せたら終わりだからと、前回、先生が言っていたので佳代は最後の診察を早めに終わらせて今回の事故の事を全て忘れたかった。

 病院で受付を終わらせて待合室で椅子に座って待っていると、診察室から出てきた男性に見覚えがあった。あの日のカウンターの中に入っていた優しそうな長身のバーテンさんだったのだ。

 「あっ。君は? あの時の女の子だね?怪我はもういいの?あの日、真っ青な顔で出てきたから…。泣きそうな顔が気になっていたんだよ。大丈夫だった?」

 よく見るとあの時の、若い男性は端正な顔をしていて優しそうな目が佳代に安心感を与えた。そして、爽やかに笑顔で話してくれたので北田の事は思い出さないように努めた。

 「はい。ありがとうございます。もう、治っているって先生も言ってくれたので今回で終わりです。」

 佳代は明るく元気な声で、笑顔で返した。

 「それは良かったね。実は、僕は心配していたんだよ。君が事務所に入って行った時から。あの、北田は女癖が悪くてね。もうないと思うけど、夜の店には近づいたらいけないよ。」

 その若い男性は、左の指に包帯を巻いていた。佳代が男の指に気が付いて見ていると。

 「あぁ~これね。包丁で切ってしまった、大したことはないけど、傷口が深かったので一応病院へきたんだ。僕はあの店では、ただの大学生のアルバイトだよ。バーテンは給料が高いからね。」

 「それでも、この怪我じゃお酒は作れないしね、この辺が潮時かなぁ。では、またね。どこかで会うかも知れないね。僕も、この辺の近所のアパートに住んでいるから。」

 そう言って、その人は帰って行った。この人と、もう一度どこかで会えたらいいなぁと思った。今まで佳代は、男の人と話す機会がなかったので、ドキドキしながら話していた。優しい目をした爽やかなバーテンさんは、佳代の胸を時めかせた。

***

 数日が経過し、お休みの日の朝から佳代は、一人で地下鉄に乗って大阪北堀江の中の島図書館に来ていた。本を買うのがもったいないので、休みの日に三階にある図書館を時々利用している。歴史的建造物なので見学だけでも楽しめ周りの公園で一日時間をつぶすときもあった。

 暑くもなく寒くもないちょうど良い気候で 、今の季節が一番好きだ。公園にはバラの花が満開だった。今回は、五冊借りた。二週間ほど猶予があるので期間内に読める数だけ借りている。

 佳代は、本を持ってバラが見渡せる公園のベンチに座り借りてきた本の一冊を読み始めた。二時間ほど読んでいると佳代のお腹が鳴った。朝に菓子パン一個だけの朝食なので若い食べ盛りの佳代には足らなくていつも空腹だった。

「あのぉ~。写真を撮らせてもらって良いでしょうか? けして怪しい物ではありません。公園の薔薇の写真を撮っているのですが、薔薇と女の子の写真が撮りたいのです。もし、嫌だったら顔はフォーカスして分からなくして撮りますが?大丈夫でしょうか?」

 キャップを目深にかぶった若い男性に声をかけられた。

 キャップの下から穏やかな目をした男性は、丁寧な話し方で佳代の顔を覗き込んだ。目が合って、佳代は一瞬、男性の左ほほの赤いアザに視線が向くと男性は困ったような顔をした。

 「あっ!良いですよ。私の顔がはっきり写っても、どうぞ自由に撮ってください。私は平気ですから。」

 佳代は、男性のアザが赤くてきれいだと思った。初めて見るアザではなかったからかも知れない。田舎で幼馴染の奈美ちゃんが、同じような赤いアザが鼻の横にあったのを思い出していた。

 奈美ちゃんは、いつもアザの事を気にしていてお母さんのお化粧を塗って学校にきているのを思いだした。お化粧の威力はすごいと思った。

 読み疲れてベンチから一度立って両手を広げて佳代は、大きく深呼吸した。

すると、ずぅ~と、向こうの方から若い男性三人が歩いてきてこっちを見ている。

 「あれぇ~!君。また会ったね。こんな所で読書なの?一人?」

 佳代がもう一度会いたいと願っていたバーテンさんだった。他の2人は同年代の友達のようだったが、佳代が知り合いだと思ったのか、二人の友達は先に歩いて図書館の方へ歩いて行った。

 「あっ!はい!偶然ですね。今日は店がお休みなので本を借りにきて、ここで読んでいました。」

 佳代は焦っていた。今日の服装が普段着で、ちっともおしゃれをしていない。お化粧もせず、ほとんどすっぴんだったので真直ぐ顔を見られるのが恥ずかしかった。

 「お休み?そうだったのか、君のお店は何のお店?あの病院の近くなんでしょ?」

 「はい。化粧品店で住み込みで働いています。と、言っても今は近くのアパートに引っ越しましたけど。」

 「そうかぁ。じゃ、今日は暇なんだ?良かったら僕と図書館の中の喫茶店でコーヒーでも飲もうか?ジュースでもいいよ、おごるから。あの二人の事は気にしなくて大丈夫だから。」

 佳代はお腹が空いている事は恥ずかしくて言えなかったので、ぐ~っと鳴らない事を願った。

 三度の食事は住み込みで働くお店で食べていたが、アパートに引っ越してからは、休みの日には自分で食べる。自炊をしていないのでいつも菓子パンだったのだ。早く一人で住める部屋が欲しい、自炊もできるアパートに引っ越したいといつも思っていた。

 バーテンさんは佳代の大きなショルダーバッグを持ってくれて、歩きだしていた。本が数冊入っていて佳代には重かったがバーテンさんが軽々と持ってくれた。

 佳代は、すっぴんでも可愛かった。

 くりくりとした大きな瞳でスッとした鼻先が目とのアンバランスで知的でもあり愛らしくもあったのだ。佳代は、今回で三回目に偶然会ったバーテンさんだから、迷わず緊張しながらも後を付いて行った。

 「僕の名前は、石田理です。大学四年生で来年卒業して就職するんだ。君の名前は?」

 「私は、山下佳代です。十九歳になりました。田舎が鳥取なので大阪弁が苦手です。松屋町の化粧品店で働いていますが、時々イベントの時には、心斎橋のお店にも手伝いに行きます。」

 「この間の、足のケガ。あの交通事故は、お店の友達と心斎橋に買い物に行く途中であの方の車に、でも、もう今は、まったく大丈夫なんですけどね。」

 そう言って佳代は、ケガをしていた右足をくるくると動かして微笑んだ。

 バーテンさんと向かい合わせて座るとなんだか二人の顔が真正面で恥ずかしかったが綺麗な顔をしているバーテンさんが素敵だなと思った。

 ずいぶん前に艶ちゃんの彼氏さんと友達の大学生は、佳代の事を馬鹿にしたような喋り方で佳代の気分を悪くさせた。あれ以来、佳代は、大学生が苦手になった。今は優しい目で話しかけてくれるバーテンさんが好きだった。

 「あの、バーテンさん!あっ、間違った。石田さん、お友達は放っておいて大丈夫ですか?」

 「あぁ、いいんだ。三階の図書館に用事があって其々に、卒論提出の為に調べたい事があったから待ち合わせて来ただけなんだ。気にしないで、どうぞ、オレンジジュース飲んでよ。図書館には良く来るの?」

 「はい。いつも一人できます。本が好きで、買うとお金がかかるから図書館はありがたいです。私の家、貧乏だったから集団就職で大阪にきました。自分の分からない事や難しい字も辞書で調べて納得するんです。一番楽しいのが読書です。」

 佳代は、大阪に来て初めて口に出した事だった。自分の学歴の低さが自分自身を卑下して自信がなくなった。そんな経緯が艶ちゃんの彼氏さんの大学生の言葉だったのだ。それからは、自分を向上させるため分からない事は何でも調べて勉強しようと思った。

 自分の事を偽らず飾らず本当の事を言った時、このバーテンさんはどんな事を言うのかと思った。少し怖かったけど、それで態度が変わったら仕方がない事だと佳代は思った。

 「そっかぁ。一人で大変だね。勉強することはとてもいい事だから頑張ってね。図書館でも分からない事があったら僕が教えてあげるよ。お休みの日は何曜日?図書館に来ている時に又、会えるかな?会えるといいね。」

 そう言って石田理は、立ち上がり伝票を取って会計の所へ行った。佳代は、バーテンさんの言葉を聞いて、石田理がもっと好きになった。

 何故って?佳代の頭の中が、全くザワザワしなかったから!心も顔もきれいなバーテンさんを好きになってドキドキし、憧れにも似た感情が湧いてきて嬉しかった。

 

 


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ

僕の失恋7 短編

年も明けて、もう三月が終わろうとしている。

最近、やっと新しい職場での仕事にも慣れてきた。

 変わった事と言えば、毎日車移動で支店を回ったり商品を買い付けの下見に出かけたりと車生活が多くなってきたこと。そして、愛知県の名古屋市辺りの詳しく載っている地図も買った。携帯の画面では分かりずらい時もあって大判の地図が便利だ。

 もう一つ変わった事は、数回に一度は先輩も一緒に車に同乗する事だった。

 僕は先輩に気を使って疲れる時もあるが、先輩に教えてもらう事も大切な仕事だと思っている。僕の知識の引き出しが増えていくので僕にとって仕事のスキルがアップしてくると日に日に感じる、嬉しい事だ。

 今朝は、昨夜仕事帰りにコンビニで買ってきた菓子パンと牛乳で簡単な朝食をすませて、さて出勤しようと後片付けを始めたところで携帯が鳴った。

 仕事の電話だと思い、取ったら、美子からの電話だった。いつもはメール交換で電話は、しないようにお互い暗黙の決まり事だった。僕は何か胸騒ぎがしていた。

 「正人、突然でごめん。昨日の夜に、父が。父が、母の病院に向かう途中で対向車のトラックと正面衝突して、救急車で病院に運ばれたけど、すでに息絶えていたって 。父は車に挟まれて即死状態だったって警察から電話があったの!」

 美子は、病院から電話をかけているのだと言った。その声は泣き疲れたのだろう、消え入りそうな掠れた声だった。

 「美子!大丈夫か?なんて言って良いのか分からないけど…。美子が心配だよ。」

 僕は、あまりの衝撃で言葉が出てこなかった。

 「母の手術が上手く行って、やっと退院の話が先日あったばかりなのに…。どうして父が…。旅館で働いている人たちが病院に来てくれていたけど、さっき帰ってもらったの。この先、どうなるのか見当もつかないわ。」

 「あっ、ごめんなさいね、正人は朝から忙しいのに又、連絡します。」

 僕は、気持ちが動揺していたが出勤の時間が少し過ぎていたので慌てて駐車場へ急いだ。その日の仕事は、一日中美子の事が気になってしまって、深呼吸を何度もして気持ちを切り替えるのが大変だった。

その日の夜、僕は大阪に住む母に電話をした。

「あっ。母さん、大変な事になったんだ。今日、和歌山の美子から電話があって社長が交通事故で昨日亡くなったんだ。奥さんも昨年から心臓が悪くて入院していたんだが、社長は、病院に行く途中で事故にあったらしい。」

 僕は母に電話をするのを躊躇したが、知らせない訳にはいかないだろうと判断しての事だった。僕も母も社長にはお世話になったんだ。母だけでも…。いや、僕も会社に頼んで一日だけ休みをもらってお葬式にでないと。

 次の日の朝、僕は和歌山に出向いて行った。母は、大阪から一人で行くからと連絡があったのだ。

 美子の実家の旅館には、従業員が20名ほどいる。全員が協力してお葬式にあたっていた。これから先、美子は旅館はどうするのか?ゆっくり話ができる暇はなかった。お母さんはまだ病院に入院していて居なかった。

 「あっ!美子ちゃん。この度はご愁傷様でした。大変だろうけどね、気を落とさずにお母さんを大切に労わってあげてねぇ。」

 僕の母がお悔やみに来ている人たちに混じって挨拶しているのが見えた。美子は忙しそうに立ち動いていたので話しかけるタイミングが見つからず結局お葬式が終わるまで話せなかったのだ。

 「あっ。正人さん、この度はわざわざ来てくれてありがとうございました。お母さんにも来ていただいて遠い所すみません。」

 僕と母とが並んで座敷の隅で残っていたのを美子が気が付いて側にきて深く頭を下げた。僕は、美子から聞いた社長の言葉をまだ家の母には話していなかった。美子は、その後、母親から僕たちが血が繋がっていない他人だと聞かされていたので安心しているのだろう。

 しかし、社長がいない今は、僕の母だけが知っている秘密なのだ。母が、美子の母に作り話を吹き込んでいたのなら社長の言葉が本当だろう。

 機会を見て、母に確かめなければいけない。逃げられない現実だった。 美子とゆっくり話ができないまま帰らなければいけないのは辛いがすぐに帰る時間は来た。

 「美子、僕と母さんと一緒に大阪まで帰って、そこから僕は名古屋に戻る。又、夜にでも電話をしてくれないか?どんなに遅くなっても待っているから。話したい事があるんだ。」

 僕は、帰りの大阪までの間に母に社長の言葉を話してみようと思っていた。このタイミングで話さないと、メールや電話では母の顔を見て話せない。母の、様子や微妙な顔の変化も見逃してはいけないと思っていた。

 「母さん、ちょっと話があるんだ。隠さないで正直に僕に話して欲しい。」

 僕は、和歌山から大阪の天王寺までの特急電車の中で話し始めた。今しかないと考えたのだ。母は、僕の向かい側の座席に座っていた。平日なので電車は混んでいないのでゆったりと座れた。

 「突然だけど、僕は、美子の事が好きなんだ。他の人と付き合った事もあるがどうしても美子じゃないと結婚は考えられないと思っている。」

 話すのに勇気がいったが話始めるとスムーズに言葉が出てきた。母は、じっと黙って聞いている。

 「美子も大学一年生の夏に、東京から和歌山の実家に帰省した時に、社長に僕が好きだから将来結婚したいと話したそうだよ。すると、社長は物凄い剣幕で怒ったそうだ。そして、社長に言われた言葉が衝撃的で美子と大喧嘩になって以来、美子は和歌山に戻っていなかったと言っていた。」

 「母さんは、社長が何を言ったのか分かるかな?社長は、昔、母さんと付き合っていたが別れて美子のお母さんと結婚したと言ったんだ。衝撃的なのはこの後だったよ。」

 「僕と美子は腹違いの兄妹だから結婚は絶対に許さないと言ったんだ!」

「母さんはどう思う?この話は本当かなぁ? 僕は母さんを責めているんじゃないんだ、僕にとってそんなことはどうでも良い事だ。ただ、僕と美子が結婚できるかどうかを聞きたいだけなんだよ。」

 「昨年の秋に美子のお母さんが心筋梗塞で倒れて、美子は、和歌山の実家に戻ってずっと今まで付き添っているんだ。そんなところに社長の事故が起こってしまった。僕は美子にどう慰めて良いのか分からない。」

 「美子のお母さんも、母さんと同じ事を言っていたらしい。正人さんのお父さんは外国船の船乗りだった人だから、美子は正人くんと結婚できるんだよ!と、言われたらしい。 どっちが本当なのか僕には分からない。」

「どちらかが勘違いをしているのかも知れない。真実は母にしか聞くことができないんだよ。辛いなら、詳しく話さなくても良いから、僕が美子と結婚できるかどうかだけ言ってくれたらそれで良い。それだけで良いんだ!」

 母は、俯いてずっと黙ったままだった。もうすぐ大阪天王寺に電車が到着する、結局母は、何も話してくれないのか。

 「母さんには、辛い事がいっぱいあった和歌山の時代だったんだね。思い出させて悪かったよ。僕は、母さんの言葉を信じて美子と結婚するよ。良いよね。賛成してくれるよね?」

 もうすぐ、天王寺に到着します。と、特急電車のアナウンスが流れだした。その時。

 「正人、だめだよ! 美子ちゃんと結婚しちゃだめ!昔、作り話でも、ああ言うしか母さんは生きていく術がなかったんだよ。それに美子ちゃんのお母さんに本当の事が知れたら傷つけるだけじゃなく、赤ちゃんだった正人を抱えて母さんが生きていく場所がなかった。旅館で働かせてもらうには、船乗りの父親の話が必要だったんだよ。」

 母は、目に涙をいっぱいためていた。僕は想像していた以上に母にとって辛い話を聞いたのだ。若いこれからの人生がある僕の事よりも母が可哀そうになった。赤ん坊の僕を抱えて生きていく厳しい現実を思いやると僕は母を責める事ができないと思う。

  「そうだったのか、大丈夫だよ。母さんが悪いんじゃない、社長が一番悪い。そして、社長の両親が悪い。母さんの人生を狂わせたんだ。母さんのせいじゃないんだよ。僕は大丈夫だから。美子の事は、きっぱりと諦めるよ。母さんに心配はかけないから安心してよ。僕は、母さんに感謝しても仕切れないほどの苦労をかけたと思っているんだからね。」

 「もう、その事は、気にしないでね、忘れてよ! 美子にも話すよ、もちろん美子のお母さんには絶対に秘密にしてもらう。心臓の悪いお母さんに聞かせたら大変な事になるからね。ホント、母さんは心配いらないから大阪の帝塚山のお父さんと仲良く暮らしてね。僕は仕事を頑張るよ。大丈夫だから。」

 話が終わる頃に、特急電車が天王寺のホームに到着した。母は、ハンカチで涙を何度も拭いていた。僕は、天王寺で母さんと別れて新大阪から新幹線で名古屋に向かった。

 帰りの新幹線の中で僕は、シートに体をあずけ物思いにふけっていた。

 やっぱり美子と兄妹だったのだ。美子の事を考えると心の奥底から湧き上がる何かが、ざわざわしてきた。

 あの時、美子のお母さんが倒れていなかったらいずれは、僕と美子は一緒に暮らしていただろう。そうなれば僕たち二人は取り返しのつかない事になっていた。

 そう思う反面、もう一人の僕が世間やモラルを無視しても誰も知らない事だ、美子と結婚しても子供さえ作らなければいいんじゃないのか。と悪魔の様に囁く僕もいた。

  僕は眠気でうとうとしていた。美子と二人、靄のかかった林の中で道に迷いながら彷徨い歩いて疲れ果てた時、いつの間にか熱い体を合わせて微睡んでいた。

  目的の名古屋に着く直前、新幹線の柔らかい音楽と共にアナウンスが名古屋到着を知らせていた。僕は我に返り、はっきりと目が覚め現実に戻った。


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ

大阪暮らし3 交通事故

 佳代は、賑やかな都会での暮らしも、だいぶ慣れてきた。

 今朝も変わらず、朝食を済ませて皆の食べた食器やテーブルの後片付けをしていると、二階から階段を慌てて降りてくる奥さんが、何か大声で叫んでいる。

「大変やわぁ!!アキラがおらん!!あのこ、家出したんや!!」

 奥さんが手に持っているのは、アキラくんからの置手紙のメモらしい。長男のアキラくんは、佳代よりも一つ年下の高校三年生。いつも二階の自分の部屋で本を読んでいる大人しい性格の男の子だった。

 佳代がいつも二階の部屋の掃除をしていたのでアキラくんは気を使ってくれた。部屋を掃除しやすい様に片付けてくれたり、たまに面白かった本を貸してくれるのだった。

 それも、照れながら言葉少なく単行本を手渡してくれる様子がシャイで可愛いと思った。しかし、両親には何故か反抗的でそっけなかった。

 夏美ちゃんが、そんなアキラくんをよくからかっていたのだ。

 私は驚いた。まさか家出なんてするような勇気がある子だったのか。奥さんは大騒ぎしている。アキラくんの自転車も無いらしい。置手紙には、自転車で九州一周してくる。心配しないで下さいとだけ書いてあったと、奥さんは涙目になって騒いでいた。

 支店の秋ちゃんにも、奥さんは興奮して電話をしていた。今日は旦那さんが留守の日と分かってのアキラくんの計画的犯行だ。組合の寄り合いで一泊で温泉旅行に出かけて留守の日だったのだ。

 秋ちゃんは以前、商社マンとお見合いをしたが上手く行かなかったようだ。秋ちゃんの方が気に入らなかったらしい。それも夏美ちゃんからの情報だった。その後、何度かお見合いをしたが断ったり断られたりで上手く行っていなかった。

 その日の晩御飯は、近所の食堂から丼物を取って済ませた。

 次の日の夜に、旦那さんが帰ってきたが、報告する奥さんの興奮した声も聞いているのかいないのか、と思うほどに聞き流して驚いた様子が無かったのは、何故だろう放任主義なのかなと佳代は思った。

 一カ月が過ぎた頃、真っ黒に日焼けしたアキラくんが帰ってきた。ずいぶんと顔が男らしく逞しく輝いて見えた。佳代はアキラくんが眩しかった。

 そして、ある日の朝、旦那さんが夏美ちゃんと私を食卓に座らせて話があるといつもに無い厳しい顔になったのだった。

 「夏美ちゃん。佳代ちゃん。よう聞いてや。今までこの店の二階で二人とも仲よう暮らしていたけどな。これからは二人で近所のアパートに引っ越して店に通って欲しいんや! もう、相手さんとは契約しているよってに荷物を運んだらええだけになっとるから。」

 「二階には、アキラの部屋もあるし、あんたらが出た後の部屋にはまーくんの部屋にしようと思っとるんや。まーくんも下のわたしらの和室では、もう窮屈や言うしなぁ。明日からそっちに引っ越すようにしとるから、よろしゅうに頼むわな。」

 旦那さんの顔がやっと緩くなった。

 その夜、銭湯の帰りに夏美ちゃんが言うことに佳代は驚いた。

 「あんなぁ。佳代ちゃん。絶対に誰にも言うたらあかんでぇ。アキラくんが佳代ちゃんの事を好きになったんやないかって、旦那さんも奥さんも思うてはる。同じ屋根の下に、子供たちを若い娘と暮らさせたら、ろくなことが無い言うてはったわ。昨日の晩にトイレに行くときに廊下で聞いてん!」

 夏美は、神妙な顔つきで佳代に話してくれた。

 「まぁ、気にしなや。私は、アパートで自由に暮らせるようになって嬉しいんよ。佳代ちゃんも奥さんに夜、雑用を頼まれんでええやんか。そやけどなぁ、トイレは嫌やなぁ。共同トイレは気持ち悪いやろ。でも、まぁ贅沢は言うてられへんからなぁ。」

 次の日の朝から、二人は引っ越しの荷物を小分けにしてお店の斜め向かいのアパートに運んだ。二人とも今まで使っていた重い布団は持って行かなかった。途中、夏美ちゃんと二人で近くの家具屋さんで小さな安い箪笥を買って店の人に運んでもらった。

 布団も近くのお店で新しい軽い布団を買って揃えた。この辺りは賑やかな心斎橋の通りとは違って問屋がいっぱい並んで安く何でも揃えられるのだった。食事は今まで通りお店で食べる事になった。佳代のお手伝いさん業も今までのまま。それでも夜は自由だった。

 夏美ちゃんはいつものように、呆気らかんとした顔で話している。二人の部屋は六畳一間で二人の小さな箪笥を置くと、二つ布団を敷くのがやっとの広さだった。アパートの玄関を入り二階への階段を上ると、廊下から引き戸を開けたらすぐの所に、二畳ほどのキッチンがあるが自炊はしていない。

同じような部屋が隣から三つほど並んであった。狭いアパートだと思う。

 引っ越して以来、夏美ちゃんは夜になると一人出かけていた。たまに佳代も誘われるのだが夏美ちゃんの行く店はあまり好きじゃなかったので一人で夜アパートにいる事が多くなったが、一人も楽しかった。

 中之島の図書館で借りた本を読んだり、ラジオを聞いたり、夜は長くて自由があった。時々、お腹が空くと近所のお好み焼き屋さんで、一人で店に入って食べるのが一番の楽しみだった。最初はお店に入るのも勇気がいったが今は慣れてきてお好み焼きを焼いてくれる、おじちゃんとおばちゃんが面白くて楽しかった。

 相変わらず、夏美ちゃんはお店で朝食を食べた後、秋ちゃんと支店にでかけて夕方まで働き、松屋町に戻り、夕飯を食べて先にアパートにもどり一人出かけて行くのが日課になっていた。

 「佳代ちゃん、明日の佳代ちゃんのお休みに、私も一緒にお休みもろうたから、朝から一緒に買い物に心斎橋の方まで出かけへん?」

「あんなぁ、実は秋ちゃん、お見合いやねん。奥さんも旦那さんも一緒にでかけるから支店の方もお休みにしたんやて!ラッキィやったわぁ。」

 夏美ちゃんの頗る、ご機嫌な様子が佳代は可笑しかった。

 最近のお休みの日は、朝食を自分たちで食べる事になっていたので、いつも前の日にどちらかが二人分の菓子パンを買っていた。お店に行く事もなく自由に過ごせた。

 朝、ゆっくりと二人は起きて顔を洗い菓子パンを食べた。夏美ちゃんは丁寧に付けまつ毛を付けてファンデーションもいつもよりも丁寧に塗っていた。最近、時々夏美ちゃんはお化粧をしながら煙草を吸っている。佳代はちょっと煙いと思っていたが、あえて何も言わなかった。

 アパートから出て、賑やかな繁華街までゆっくりと二人は歩いた。賑やかな通りまでは、いろんなお店が並び人も多く歩いている。初めの頃は、狭い道路に人と車とで危ないと思ったがいつもの様子なので慣れていた。運転する人も、車をゆっくりと運転して進んでいた。

 四つ角で、左側の歩道を歩いていた私は、右側の道路から左折する車と接触した。と、言っても私が一歩右足を道路に出した時に、左からゆっくりと走っていた車が左折したのでその時、私の右足の上をスローモーションのように車の左後輪のタイヤが靴の上に乗ったのだ。

 新しい流行りの先の丸い靴を買ったばかりだった私は、そっちの方に気を取られて一瞬何が起きたのか分からないくらいスローモーションだった。「あぁ~大事な靴の上にタイヤが!」と思った瞬間右足先の痛みが襲ってその場に座り込んだ。車は慌てて止まり中から降りてきたのは若い男性だった。

 「大丈夫なん?佳代ちゃん、大丈夫かぁ?」

 夏美ちゃんが駆け寄ってきた。その車に乗っていた若い男性も私の足を見ていた。私は痛みで顔を歪めていたのだろう、夏美ちゃんがその男性に興奮して言った。

 「何してんのん!あんたの車でこの娘が足を怪我したんやで。早う病院へ連れて行ってあげて!私が知っている病院がすぐそこやから!」

 そう言うと、夏美ちゃんも一緒に車に乗り込んできた。近くの個人病院へ急いだ。その男性は、緊張していたのか無言。怪我は大したことがなかったが、右足の親指から小指までがタイヤが乗ったので軽い捻挫らしく、痛み止めの薬と湿布薬をくれた。病院の支払いは、その泣きそうな顔の男性が払ってくれた。

 夏美ちゃんは、相手の男性の連絡先のメモをもらい、私の連絡先として、松下化粧品店の住所と電話番号を書いてその男性に渡した。その日は、買い物も中止で私は、足を引きずりながらアパートに戻った。夏美ちゃんが一緒にアパートまで送ってくれた。

「せっかくのお休みやから、私は、ちょっと遊んでくるね!」

と、夏美ちゃんはニヤッと笑ってペロッと舌を出して出かけて行った。いつも側に夏美ちゃんがいる。佳代は安心できる夏美との波調が好きだった。サバサバした性格もとても居心地が良かった。

 

 

 


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ

大阪暮らし2 違う世界の大学生

 「佳代ちゃ~ん! ちょっとお使いに行ってきてくれへんか?すぐ近くやから佳代ちゃんにも分かると思うからな。」

 「このメモに、地図と必要な化粧品の名前を書いとるから先方さんのお店に行ったら、このメモを渡すんやで!分からへんかったら誰かに聞いたらええから、歩いている人に聞いたらあかんよ!ちゃんとそこら辺の店で聞かなあかんよ!」

 奥さんから持たされたメモには、簡単に書いた地図と某メーカーの化粧品の名前が書いてあった。うちの店には商品が品切れで、それでも急ぐお客様のご要望なのでメーカーに発注しても時間がかかって間に合わないのだ。近所の化粧品店にお願いできるシステムになっているらしい。

 「こんにちは。すみません。松屋町の松下化粧品店からお使いにきました。コレを見て下さい。」

 メモの地図に書いていたお店は、心斎橋の賑やかな通りから少し横の道に入った所にあった。

 「あっ。いらっしゃい。さっき奥さんから電話をもらっていますよ。商品、用意していました。そして、コレは、あなたに、お駄賃ですよ。」

  見るからに優しそうな、お店の女性が商品が入っている袋と並べてカウンターの上に置いたのは、ポチ袋だった。

 「えっ。いいえ、ありがとうございます。わたしなら大丈夫です。これも仕事ですから。それに、貰ったら奥さんに叱られるかもしれませんから。」

 佳代は、困ってしまって化粧品の袋だけ手に取った。

 「大丈夫よ。そんなに入っていないから。気にしないの!いつも店員さんが来たらあげているのよ。だから貴女も取っときなさい。」

 お店の女性は、優しく微笑みながら佳代に言った。

 佳代は、店員さんとは、夏美ちゃんの事だと心の中で思った。そんな話は全然奥さんに報告していない夏美ちゃんらしいと思う。あまりお断りしても逆に気を使わせてしまうので遠慮なく頂くことにした。

 その日の夜、夏美ちゃんと銭湯に出かけた時、その話をした。夏美ちゃんは、まったく気にしていなくて呆気らかんとしていて私は、夏美ちゃんがかっこよかった。

「佳代ちゃん、何でも気にしすぎやわぁ。あげる言うもんは、貰っといたらええねん。そんなことは、いちいち奥さんに報告せんでもええ!分かった?」

 「はい。分かりました。そうします。」

 佳代は、友達の年上の艶ちゃんに紹介してもらった、この松下化粧品店に住み込みで働く条件は、あくまでも化粧品店の店員さんだったのだ。それがいつの間にかお手伝いさんになっていて化粧品の勉強会になかなか出席させてもらえなかったのが少し不満だったが、慣れるまでは仕方がないと諦めていた。

 その日は、佳代の定休日。週に一度、自分の好きな日にお休みをもらえるのだ。前もって日にちを申告すると奥さんが都合をつけて店番も家事も自分でやってくれる。

 「今日は、佳代ちゃんがお休みやから夏美ちゃん!支店から早めに帰っといでな。秋ちゃんには、もう話しとるから。ええな。夕飯の買い物を手伝ってや!」

 朝食を終えて秋ちゃんと一緒に出掛ける準備をしていた夏美ちゃんに、奥さんが話しかける。私は、みんなが食べた後の食器を洗いながら耳をそばだてていた。私がこの店に来る前には、夏美ちゃんがやっていた仕事だった。

 休みの日でも雑用は片付けてから出かけなければいけなかった。

 久しぶりに出かける佳代は嬉しかった。その日は、この店を紹介してくれた艶ちゃんと会う約束をしていた。働き出して最初に出かけたのは、お給料が出た時、美代ちゃんの家にお世話になった時期の家賃と食費を払いに出かけた。そして、二回目の休日には一人で心斎橋の商店街で買い物をした。

 佳代は、休日は出来るだけ出かけたかった。常に奥さんがいて用事を言われ休日なのにゆっくりできない初めて、住み込みで働く辛さを知った。

 「佳代ちゃん、待った?どう?仕事は?皆さん優しくしてくれている?住み込みは大変だけど頑張ってね。」

 その日、心斎橋の商店街の人波をかき分けて難波まで歩いた。待ち合わせの高島屋の近くの喫茶店で艶ちゃんが待っていてくれた。佳代は艶ちゃんが優しいお姉さんの様で安心できる。今日もいろいろ気遣ってくれた。

 艶ちゃんは、色白でほっそりとスタイルも良く美人さんだと佳代は思う。お化粧も、夏美ちゃんとは、やり方が違っている。付けまつ毛もしていない。マスカラで長いまつ毛をカールさせていて、アイラインやアイシャドーも目立たなく上品だと思った。夏美ちゃんよりもずっと年上の感じがするが佳代は、歳を聞いた事がない。

 佳代は、知らないが艶ちゃんは大きな支店がいっぱいある化粧品店で働いているらしい。そこのお店の旦那さんや他の店の旦那さんの事も良く知っていた。化粧品の知識も豊富で長くこの仕事をやっているのだと思った。

 「佳代ちゃん、今度のお休みには私のアパートに遊びにおいで。夕ご飯も一緒に食べよう。出来るなら泊っても良いよ。奥さんに聞いてみてね。」

 優しい艶ちゃんが大好きだった。艶ちゃんと一緒にいるとリラックスできる。佳代の頭の中もザワザワしない。一緒に歩くとすれ違う男の人が振り向くほど美形だった。何度目かのお休みの日、艶ちゃんのアパートに泊まった時に男性用のパジャマがあった。

 佳代は、まだ男の人と付き合った事がないので艶ちゃんの話が刺激的で驚く事ばかりの連続だったのだ。

 朝、艶ちゃんがお化粧をしている様子をじっと見ていた。素肌もとても白くてつるっとすべすべで佳代は、うっとりとした。話では彼氏は、神戸の芦屋の長男で大学四年生だと教えてくれた。

 プレゼントされたベルベットのドレスも見せてくれた。ドレスの木地は光沢がある手触りの良い豪華なドレスだった。すごいなぁ、艶ちゃんは、と心の中で思った。

 何回か艶ちゃんに会っている内に艶ちゃんは夜、宗右衛門町でホステスのアルバイトをしていると言っていた。

 昼間は化粧品店の店員をして、夜はアルバイトをしているらしい。その時に大学生の彼氏と知り合い、デートもして、プレゼントも貰ったと言っていた。化粧品店にアルバイトの事がバレたらどちらかを辞めると言っていたが、佳代にはどっちを辞めるのか見当がつかなかった。

 佳代の知らない世界だと思った。

 そして、艶ちゃんのアパートに泊まった日の朝、大学生の彼氏が来て、一緒にドライブに連れて行ってくれた。その彼氏の家に用事があると言う事で私も乗っていくように勧められたのだ。

 神戸の芦屋の山の上の辺りまで車が登って行って大きな家の車庫の前で止まり車の中からリモコンでシャッターを上げたのには驚いた。艶ちゃんも私も車から下りなかった。その大学生は家にどうぞとは、言ってくれなかったのだ。艶ちゃんは彼女なのに何故だろうと思った。

 大学生が家の中に入り用事を済ませすぐに車に戻って大阪の難波まで送ってくれた。佳代の頭の中がザワザワと気持ち悪かった。帰り、車の中に私は傘を忘れてきた。

 一週間が過ぎた頃、艶ちゃんから店に電話があり奥さんが私に繋いでくれた用件は、私に傘を届けるので近くの喫茶店まで来て欲しいとの事だった。

 奥さんに許可をもらいその指定された喫茶店に行ったら、艶ちゃんは来ていなくて男性の大学生が二人テーブルに向かい合って座っていて名前を呼ばれ、私は、案内されて席に着いたが二人の話に付いていけなかった。

 それに、私が注文したアイスコーヒーの言い方が可笑しかったのか、バカにされたような言い方が感じ悪かった。頭の中がザワザワとして嫌な事が見えてくる。

 どっちの男性が艶ちゃんの彼氏なのか、もう、私はどうでも良かった。

 親のすねをかじって良い車に乗って、夜の店に出入りするような大学生は、私の様な住み込みで働く女の子は面白いのか。二人の考えている事が透けて見えた。

 こんな惨めな気持ちになったのは初めてだった。

 それ以来、私は艶ちゃんのアパートには遊びに行かなくなったが、艶ちゃんが可哀そうになった。辛い思いをしなければ良いのだがと心配になった。

 


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ

大阪暮らし1 住み込みのしごと

「佳代ちゃ~ん! 買い物に行ってきてくれへんか?!

今日は、まーくんの好きなカレーにするから。長堀商店街のお肉屋と八百屋さんに寄ってな!」

 この店の奥さんは、子供が三人いた。長女はもう成人していて心斎橋の化粧品店の支店の方を手伝っている。長男は高校二年生。次男がその、まーくんなのだ。小学一年生の男の子。

 ずいぶんと年の離れた兄妹だな、と佳代は思っていた。奥さんは、高齢で生んだ次男のまーくんが可愛くてしょうがないみたいだ。とても甘えん坊のまーくんは体が弱いので、それもあるのかなぁと思っていた。


 ここの化粧品店を紹介してくれたのが職場で知り合った艶ちゃんだった。電機会社で一緒に行動を共にしていた美代ちゃんは、ちょっとした事で気まずくなってしまった。

***

 佳代が大阪にやってきたのは、中学を卒業してすぐの事。

 集団就職で大きな電機会社に就職したが世の中が不景気になって会社は倒産した。

 寮で暮らしていた佳代は行く当てもなく困っていた時、実家から通っていた同僚の美代ちゃんが自分の家に来ないと誘ってくれた。一日でも早く住むところを探さないといけないと焦っていた。

 美代ちゃんと二人で、町工場やレコード店の店員を試しに一週間ほど経験したが、気に入らなくて彼女が辞めると佳代も流されて一緒にくっついて辞めていた。

 佳代は、幼いころから不思議な能力があった。

人と話をしていると頭の中がザワザワしてきた時に、相手の考えている事が透けて見えるのだ。田舎を出る時、母にきつく言われたことがある。

「佳代!!決して人様にその事を話したらいけんよ。話すと佳代が生きていくのに邪魔になる。」

 「見えた事を自分だけで、よく考えて佳代がこれからを、どう選んで人生を生きていくのかで幸せになれるかどうかが決まるんじゃからね。」

 普段は優柔不断で寂しがりやなのに、時々この不思議な力が現れて佳代の運命を導いてくれる。

その事に、始めて気が付いたのは、小学六年生の時だった。

 漁師だった父は毎日、酒を飲んで暴れていた。酒乱で被害妄想だった父は、母に暴力ばかり振るっていた。子供だった佳代が止めに入った時にも、相手構わず暴力を佳代にまで振るった事もあった。

子供心にそんな父が大嫌いで、早く死ねばいいのにと、母が殴られるたびにいつも思っていた。

辛い毎日の繰り返しの中、事件が起きた。

「お前の事を噂しているもんがおるんじゃ!!悟とできとるらしいのお!」

「何言うとるん、家が貧乏じゃけん、困っとろう!言うて悟さんが残りの魚をくれとるだけじゃがぁ!危ないから、そんなもん振り回すのは止めて!」

母は、叫びながら父の持つ出刃包丁を取り上げようと必死だった。ほんの一瞬母の声が途切れて静かになった時、父のお腹に包丁が刺さって母は呆然と立っていた。

佳代は、妹の京香と二人薄暗い汚い部屋の襖の隅で見つめていた時、急に頭の中がざわざわしてきて母の声が聞こえた。

 「ごめんなぁ、あんたは死んでくれて良かったんじゃぁ。」

母の辛そうな悲しい声が佳代の頭の奥に響いて聞こえてきた。

 小さな漁師町で起きた事件は、正当防衛という事になって母は刑務所には入らず、貧しいながら漁連で母は下働きをさせてもらい、三人で佳代が中学を卒業するまで暮らした。近所の人達も父の酒乱や暴力の事を知っていたので、母の人柄もあってか皆、同情的で親切にしてくれた。

 中学生になった頃、頭の中に聞こえたその事を勇気を出して母に話してみた。その後も度々、人の嫌な言葉が聞えてくるので怖くなっていたのだ。

***

 

 佳代は、前の工場で好きだった人の事をよく美代ちゃんに話していた。美代ちゃんが優しく聞いてくれてお姉さんみたいに慕っていたが、ある時、美代ちゃんの考えが見えてしまった。

 いつも優しく相談に乗ってくれて話も聞いてくれていた美代ちゃんが、佳代に内緒でその人と付き合っていた事が見えてショックを受けたのだった。佳代は、美代ちゃんの家を出る時、その事は、言わなかった 。

 「美代ちゃん、二週間だったけど、お世話になりました。おばちゃんにもお礼を言っておいてください。いつも美代ちゃんと同じようにお弁当を作ってくれて嬉しかったと伝えてね。」

 「今までの家賃と食費は次に働いた所のお給料が出たら必ず払いにくるから。それまで待って下さい。」

***

 このお店にはもう一人、店員兼お手伝いさんがいる。

 夏美ちゃんだ。彼女は福井県から出てきたらしい。色白でいつも長い付けまつ毛をしていた。佳代の先輩になる夏美は、長女の秋ちゃんといつも行動を共にしていて佳代が入ってきたのを機に支店の方を手伝っている。

 夏美ちゃんは、休みの日になると、ミニスカートをはいて濃い化粧をして難波の町へくりだしていく。たぶん、ディスコだろう。

 夏美ちゃんは、佳代と同じ部屋で寝ていた。お風呂も近くの銭湯へ二人で出かけて、なんでも教えてくれた。いつも夜になるとポータブルプレーヤーで、トワ・エ・モワ の「或る日突然」 をかけて歌っていた。

 「はい。奥さん、牛肉でカレーも美味しいのですが豚肉のロースでカレーも美味しいですよ。前に居た下宿先では、いつも豚肉でした。節約にもなりますしね。」

 佳代が言うと。

 「ほな、佳代ちゃん。今日は、豚肉で作ろかねぇ。頼むわ。洗いもんが終わったら、早ように行ってきいや。寄り道しなや。」

 「はい。分かりました。他に買い物はないですか?」

 「そやなぁ、まーくんの好きなバナナも買うてきてくれへんか。」

 そう言うと奥さんは、お店の雑貨の伝票を食卓の大きなテーブルに広げて目を通し始めた。旦那さんは、巨体で小柄な奥さんよりもずいぶん年上のようにも見える。大きな黒縁の老眼をかけて一緒に伝票をチェックしていた。

 その日の夜、食事の時に奥さんが言った。

 「今日の、この、ご飯。夏美ちゃんの実家の畑で取れたお米なんやで。送ってくれはったんやがな。美味しいなぁ。夏美ちゃん、お母さんによろしゅうに言うてや。」

 夏美は、佳代の顔をドヤ顔で見た。佳代は、少し肩身が狭かった。

 翌朝、二人の朝食は奥さんがご飯だけは炊いてくれていたが、おかずの卵焼きはいつも自分たちで焼くことになっていた。奥さんや旦那さん子供たちの家族が食べ終わると従業員の二人が食べる。卵焼きのない時には佃煮や昨夜のおかずの残りで朝食をちゃっちゃと済ますのが日課になっていた。

 佳代は、夏美ちゃんと並んでご飯を食べるが嫌だった。夏美ちゃんは食べるのが早すぎて佳代はいつもおかずを夏美ちゃんに食べられるのだ。それでも佳代は夏美ちゃんが好きだった。面倒見の良い夏美は新入りの佳代の世話をよくやいた。

 二階の私たちの部屋は六畳で押し入れには、重くて分厚い古い布団が二人分入れてある。その横に小さな箱を二つ並べて佳代と夏美ちゃんの日常品を入れていた。もちろん服もその箱の中なので着る時には、しわが気になってしょうがなかった。

 夏美ちゃんは、佳代よりも一つ年上の十九歳。もう、すでに大阪人になっているような流暢な大阪弁を使いこなす。佳代は、大阪弁に慣れていないのでなるべく標準語で話すようにしていた。

 「佳代ちゃん。今日は支店の商店街がお休みやから、佳代ちゃんと一緒にお店番をしてやぁって、奥さんに言われてんねんけど、私ちょっと心斎橋に買い物に行って来たらあかん?帰ったら一緒に店番するから。」

 夏美ちゃんは、今日は、長女の秋ちゃんのお見合いに奥さんと旦那さんと三人で出かけたのを知っていて佳代に言った。夏美ちゃんは、佳代に比べとても要領がいいのだった。

 「えぇ~わたし一人で店番、ちょっと心細いけど早めに帰ってきてね。」

 佳代は、雑貨のお客様だと応対ができるのだが、化粧品の客にはまだ勉強不足で不安がいっぱいなのだった。化粧品メーカーの勉強会にまだ一度しか参加した事がなくてお客様の要望を聞いてもよく分からないこともあるのだった。

 夏美ちゃんは、その勉強会にいつも参加していて、支店でも秋ちゃんがいなくても、一人で留守番して化粧品を販売できるので佳代は、羨ましかった。

 その日は、思った通り夏美ちゃんはお昼を過ぎても帰らなかった。佳代は、化粧品のお客様が来たらどうしようと不安でいっぱいだった。でも、一応お話を聞いて夏美ちゃんが戻る午後から来てくださいとお願いしようと決めていた。

 一人の客が化粧品を選んで欲しいと来たが、いつもの常連さんみたいな話しぶりだったので改めてまた来てくださいとお願いしたら何の問題もなく了承してくれた。

 奥さんたちが帰ってくる少し前に夏美ちゃんが帰ってきた。本当に要領がいいなと佳代は、関心した。夏美ちゃんは、留守の間は、何も問題はなかったと奥さんに報告した後、店番に立っていた。

 私は、奥さんに言われて夕飯の買い出しにメモを持って出かけて行った。

 夕飯の後、新入りの私がお茶碗を洗って台所の後片付けを終わらせてから二階に上がると夏美ちゃんが今日買ってきた服を見せてくれた。やっぱりミニスカートだった。少しふっくらさんだが夏美ちゃんは、ミニスカートが良く似合っていた。

 夏美ちゃんと暮らすようになって一度も佳代は、頭の中がザワザワしない。楽に暮らせていた。

 

 

  


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ

僕の失恋6 短編

僕は、仕事にも慣れて、久しぶりにゆっくりと過ごせる休日だった。

 朝から、部屋の掃除をしてベランダに布団を干して近所のスーパーまで買い物に出かけた。最近、外食ばかりで栄養も偏っていると思う。美子からのメールでずいぶんと心も穏やかになった。美子のお母さんの容態も気になってはいるが、まだ有給は取れないので見舞いに行く事は暫く無理なようだ。

 年を明けると、勤務先が変わる。名古屋にある別店舗で働くことになっている。今、住んでいる所から一時間ほどの場所にある店舗で経験を積むのだと上司から伝えられた。数年間はこの繰り返しで仕事を覚えていくことになる。いずれは大阪に戻れるようなことも言われているが、いつになることやら。

 「美子。お母さんの具合は如何ですか?先日のメールで僕たちの結婚が可能だったことに安心したよ。ホント良かったと思う。お見舞いに行きたい所だが暫くは有給が取れないのでおばさんに、よろしく伝えてほしい。」

 「そして、まだまだ先になるとは思うが、おばさんの体調が安定したら僕の住む名古屋に来ないか?一緒に暮らそう。」

 僕は、美子に住んでいる住所を知らせた。

 それから、一カ月過ぎた頃、美子からメールがきた。

 「正人、連絡をありがとう。実は、母が心臓の手術をする事になったの。当分の間は母に付き添う事になるの。正人の住む名古屋までは、遠すぎて会いに行けないと思うわ。」

「私も、正人にすごく会いたいけど、しかたないよね、我慢する。それと、大阪の引っ越したばかりのアパートは、友達に頼んで職場の人に住んでもらう事になったから、ホッとしました。正人も体に気を付けてお仕事頑張ってください。 美子。」

  僕は、美子に会いに和歌山まで日帰りしてでも出かけようと思っていたが、先日本社に出勤した時に本部からの命令で一年間の僕の仕事内容と感想を簡単なレポートにして提出するようにと上司から伝えられてしまい、今月の休日は忙しくて取れない事になってしまった。

 そんな時、大阪に住む母から手紙が届いた。

 メールではなく手紙だったので何事なのかと思いながら封筒を開けた。

 「正人、お元気でお仕事を頑張っていますか。以前、送った戸籍謄本は役に立ちましたか?パスポートは取れたの?そして、何時頃海外に研修にいくのでしょう?」

 「そう言えば、正人が大学生の時に付き合っていた人とはどうなっているの?最初の二人はすぐに付き合いをやめた事は知っているけど、四年生の時に一度マンションに連れてきて母さんに合わせてくれた、あの人とはどうなっているのかと思ってね。今も付き合っているの?」

 母は、結婚を機に仕事を辞めて家で専業主婦をやりだしてから、どうも心に余裕ができたのだろう、僕の事を気にかけだしたのだ。それに、京子をマンションに連れて行ったのにも、そんなに意味はなかった。

 母は、多分、大沼京子の事を言っているのだろう。あの時は、僕が今読んでいる本が面白いから今度貸すよ。と言うと、京子が今、マンションに取りに行こうよと気まぐれで、ついでに僕の母にも会ってみたいと言い出して断り切れなかったのだ。母が思うような関係ではないのだが、いちいち説明も煩わしいので話題にしなかった経緯がある。

 僕は、母に美子の事も何一つ話していなかった。僕の好きな人は美子なのだと言いたかったが和歌山での話は、無意識にさけていた。僕が高校を卒業した時に大阪に出ようと言い出したのも母だったのだ。僕を大阪の大学に進学させたいと言い出したのも母だった。

 その時は、何も考えず母の言う事に従って大阪に一緒に引っ越して大学に進学したのだ。僕は、アルバイトをしながら大学に通ったが、最初の入学時の必要なお金は全部母が出したのだ。結構な金額になっていたので僕は心配して一度母に尋ねた事がある。

 「母さん、そんな大金大丈夫なの?僕は別に高卒で働いてもいいんだよ。母さんと一緒なら。どこか働き口を探すから。無理をしないでよ。」

 僕は心配していた。引っ越しの費用やマンションの契約金や家賃だって結構な額だった。いくら、旅館で真面目に働いて貯金していたと言ってもたかが知れていると思う。社会人になった今だから分かる事もあるのだ。

 「大丈夫だよ。正人は何も心配いらないの。今まで、母さんは正人を大学に入れようと思って頑張って貯金をしていたんだよ。正人が心配することは何もないんだからね。」

 その時には、僕は母の言う事を鵜呑みにしていたが、今になって思うと母がそんな大金を持っている事自体が不可解な事だと思う。美子の父親の言うように、僕の本当の父親だとしたら母にお金を渡していても不思議ではない。

 それに、当時僕を認知していない事も母と僕にとっては、辛い事だった。美子の父親、即ち社長が罪滅ぼしの為に母にお金を渡していても不思議ではないのだ。

 しかし、母は、僕の父親は外国船の船乗りだったと言い続けている。お互い、母と僕は、その話には触れない様に無意識に避けていたのだった。それでも、美子のお母さんも母と同じことを言っていたと美子は言う。そうであれば僕と美子には血のつながりが無いので嬉しいのだが、何かが腑に落ちないのだった。

 その事に対して美子の父親は何も言わなくなり、不自然なほど喋らなくなったと美子が言っている。僕は、何か胸騒ぎがしてならなかった。本当に美子を名古屋に呼びよせて一緒に暮らす事が可能なのだろうか。

 年が明けて僕は、新しい勤務先に変わった。大学の時運転免許を取っていて良かったと今更だが思った。車は、会社の車が借りれるようになった。昨年までの勤務先とは違い仕事内容も変わった。

 多分、以前、僕が書いたレポートも何らかの影響が有ったのだろうが僕は嬉しかった。同じ店でずっと接客ばかりだと飽きてしまう。でも、それも仕事!大切な仕事だから疎かにはしないで真面目に働いていたのが認められたのかと考えていた。

 名古屋にある支店を回ったり店舗に並ぶ商品の仕入れや売れ筋を同じ業界の店で情報を収集したりとバイヤーの仕事の見習いだったが刺激的で面白い。僕にとっても遣り甲斐のある仕事につけたと思っている。

 以前、母からきた手紙の返事は今だに書いていなかった。僕は、母が元気そうな事が分かればそれでよかった。

 

 


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ

僕の失恋5 短編

 幼馴染である岡崎美子からの会いたいと書いてあったメールで僕の心は揺れていた。

 住むところも無い。と聞くとすぐにでも名古屋に呼んでやりたいが、そうもいかない事情もある。僕の母に知られたら?悲しませることは間違いない。それに、美子の父親である社長に知られたら激怒では済まないかも知れない。そして、美子と同棲となると僕は理性を抑える自信がない。血の繋がった腹違いの妹なのだ。

 美子はきっと僕からの返信を首を長くして待っている事だろう。情けないが僕はどうしていいのか決断がつかなかった。四面楚歌になっても美子と結婚して一緒に住みたいと思う気持ちと反面、生きていくうえでの人間としてのモラル、理性ある人間とやらが頭の中で右往左往している。

メールをもらって三日目、美子からまたメールがあった。

「正人。ごめんなさいね、この間のメールわたし、どうかしていたわ。正人を困らせているのは分かっていたの。どうか忘れて下さい。」

「そして、わたし、住む所が決まりました。今、トランスジェンダーの彼女と住んでいる場所から五分ほどのアパートに引っ越します。今のマンションよりも狭くて古いけど、わたし一人なら十分な部屋です。仕事場がある梅田のエステサロンまでも近いし、決めました。」

美子は、僕の返事がすぐに来ない事に絶望したのかも知れない。

 一度、僕の戸籍を調べてみようと思った。母の言う事が本当なのか、美子の父親が言う事が本当なのか。ちょっと怖い気がするが、まずそれからだと思った。美子の言う事が間違いであって欲しいと微かな期待を持っている。

 「母さんお元気ですか? 僕は毎日、仕事を覚える事で必死だよ。実は、母さんに頼みがあるんだ。今度会社の上司たちと海外研修に行く予定があってパスポートが必要になってね。」

 「僕の戸籍謄本が要るので取って欲しいんだ。僕の戸籍は、母さんの故郷の和歌山だよね。戸籍の住所が分かれば、僕が郵送で取るから教えてくれないかな?この一年間は大阪に戻れないけど、母さんも新しい父さんも元気で体に気を付けて過ごしてください。正人。」

 母にメールを書いた夜は眠れなかった。もし、父親の欄に美子の父親の名前があったらどうしよう。いやいや、そんなはずはない。母の言う事故で亡くなった船乗りの父親の名前があるはずだ。それとも、父親の欄は空白なのかも知れない。未婚の母もありえる。

 「正人へ。 今日、戸籍謄本を名古屋のあなたの住所に送りました。母さんは、結婚した白井照正さんの戸籍に入ったので正人の戸籍謄本の中の山口雅子は除籍されています。父親の欄は空白です。」

 「正人は不審に思うかもしれませんが、これには訳があってね。いつかは正人に話そうと思っていました。」「実は母さんは、あなたを未婚の母として生みました。父さんと結婚の約束をしていたのですが急に予定よりも早く外国航路船に戻る事になってしまった父さんは、次に戻った時に役所へ行って婚姻届けを出そうと言ってくれたのです。」

「その時、あなたが母さんのお腹にいる事を知らずに事故に遭って亡くなったのです。身重になった母さんを助けてくれたのが和歌山の旅館の社長でした。美子ちゃんのお父さんです。社長とは長い間、友達として私たち親子を親身になって援助してくれました。母さんもそれに応えるべく一生懸命働いたのです。」

 僕は、母のメールを読んでいて分からなくなった。

 美子の父親は、僕を自分の子供だと言っている。では、何故、生まれた時に認知しなかったのだろう。両親の反対に遭っていたとしても男として卑怯ではないのか。美子の言う通り許せない。

 それとも、本当は母が言う様に船乗りの父と出会った事を美子の父親の社長は知らなかったのか?自分が親の言いなりになって結婚をする時に付き合っていた母を捨てた事実が母を苦しめ船乗りの男と関係を結んだ事を知らなかったとしたら。

 僕と美子は血の繋がりはないのだ。

 僕は、母に尋ねてみよう思う。美子と結婚しても良いのかと。しかし、船乗りの父の事が作り話だったとしたら、母をもっと苦しめる事になるのだ。

  「美子へ。返事が遅くなってごめん。僕も苦しんでいるよ。新居が見つかって良かったね。美子の気持ちも僕の気持ちも同じだ、苦しいよ。僕は、先日パスポートを取ると言って母に戸籍謄本を送ってもらった。」

 「僕の母親は最近結婚したから、僕の戸籍謄本から除籍されて新しい父親となる人の籍に入ったんだ。だから僕一人が残った戸籍謄本なんだよ。そして、父親の欄が空白だった。未婚の母だったよ。」

 「しかし、美子の父親と付き合っていたとは言っていない。友達でいつも助けられていたと母は言う。僕は思うんだ、美子の父親と別れた後、船乗りの男と知り合たんじゃないかと。結婚の約束をしていたが船の事故で籍も入れていない状況の中、僕を出産したと母は言っている。」

「子供の頃からそれは言っていた事なんだ。僕がお父さんはどこ?って困らせていたら船の事故で死んだと言っていたよ。僕は、美子と結婚してもいいかと聞くのが辛くてね。もし、美子の父親が言う事が本当なら母を苦しめるから。それとも、社長が思い違いをしているかも知れない。」

 「僕は、どうしても美子を諦めきれないよ。最後の手段は血液検査だ、DNA検査まですると辛い結果が出た時に立ち直れないかも知れない。美子はどう思う?」

 美子にメールをしたが直ぐには返事が無かった。

 暫く美子からのメールが途絶えて、三か月が過ぎた頃だった。

「正人。暫くぶりですがお元気ですか?お仕事頑張っている事でしょうね。わたしは、和歌山の実家に戻ってきました。母が心筋梗塞で倒れたと父から電話があって、迷ったけど母の事が心配だったからね。父親と会うのが嫌だったけど心配でいても経っても居られなくて。帰ってきました。」

 「母は、和歌山の大学病院へ今も入院しています。正人からメールもらった後だからもう、三か月になります。今は、母の容態が思わしくなくて心配です。そして、一つはっきりした事があります。母は、父が昔、母と結婚する前、正人のお母さんと付き合っていた事を知っていました。」

 「そして、正人のお母さんが言っている外国航路の船の男性の事を母は知っていました。結婚したいと言っていた事も聞いていたそうです。本当の話です。」

「知らなかったのは父だけだったのです。当時、自暴自棄になっていた正人のお母さんが心配だったので、わたしの母がいろいろ相談にのっていたらしいのです。祖母たちの企みでも、父が正人のお母さんと別れた事に母は、知らなかったとは言えとても、責任を感じていたと言っていました。」

 「祖母たちは、母の実家の援助を充てにして縁談を進めました。父と母が結婚した後、旅館で働いて欲しいとお願いしたのも母だったのです。わたしが、大学一年の夏に父が、わたしに正人との結婚を許さない!と言って大喧嘩した後、母は父にその事、正人の父親の事を話したそうです。」

 「父は母に何も言えなかったようです。わたしが実家に近寄らなかった事にも何も言わなかったと聞いています。母が入院して一度は体調が良くなった時があって昔の事をいろいろ話してくれました。わたしと正人は、結婚しても良いのだよ。と言ってくれたのです。」

 「父は、その事にまったく触れません。わたしと顔を見合わせても正人の名前は出しません。父は、二人の女性を苦しめたのですから。
それから、正人のお母さんに、わたしと結婚しても良いかと正人がもし、聞いたとしても反対はしないと思います。 」

 「でも、わたしは複雑です。正人の事が大好きで結婚したいと今も思っていますが、母の事を考えると可哀そうで辛いのです。母も父との結婚が幸せだったとは思えないのです。母からこの話を聞いていて、わたしは涙がでました。どんなに辛かっただろうと。」

 「父が昔、付き合っていた女性がいつも側にいるのを、知らなかった事にして暮らす事がどんなに辛かっただろうと思うと泣けてきます。わたしと正人が高校を卒業するまでの長い間、正人のお母さんも辛かったと思いますが、わたしの母も苦しかったと思うのです。」

 「一番悪いのは祖母たちです。お金の為に息子を結婚させて旅館を立て直しても後を継ぐ、母たちの気持ちも考えず。昔の人はこうなのかと嫌になります。いや、家の祖母たちだけなのかも知れませんが。わたしは嫌いです。」

 美子のメールを読んで僕の体中の力が抜けた。

 僕は、この数か月、いや、美子は数年間苦しんでいたのだ。頭の中が暫く放心状態だった。僕は、あの時、美子との結ばれないであろう事実を、そのモラルを無視して結婚しようと考えた時、僕の体の中の奥深くから湧き上がってくる異常な体感が今まで経験した事がない感覚だったのだ。あれは何だったんだろう。

 


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ
にほんブログ村 小説ブログ ミステリー・推理小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 恋愛小説(悲恋)へ