大阪暮らし10 初体験

「佳代ちゃん!待った?」

 オサムが九州に勤務先が決まってから一年が過ぎ、初めての大阪への出張だと連絡をくれたのは、五月の中旬だった。佳代の定休日の水曜日にオサムは合わせてくれた。

 待ち合わせの場所はいつもの中の島の図書館前。オサムは以前に増して男らしくなり端正な顔立ちが眩しい。

 「オサムさん、私も今来た所です。お元気そうで、良かった! 今日は誘ってくれてありがとう!この、中の島の公園も今、薔薇が満開で一人で先週もきたところだったのよ。いつも手紙でしか話せないから今日は会えて嬉しい!」

 佳代はちょっと緊張していた。オサムと会ったのは一昨年のクリスマス以来だったので顔を見ると恥ずかしくて、つい伏し目がちになっていた。手紙は月に一度、お互いに近況報告など。遠距離恋愛の寂しさを佳代は手紙にいつも書いていた。

 「薔薇が綺麗だね、少し公園を散歩しよう! それから、僕の知っているお店でお昼を食べて買い物に付き合ってくれる?」

 オサムは、以前と変わらず佳代に優しく接してくれている。二人は公園の薔薇を見ながら歩いた。佳代は、昨年の社員旅行の話やお店の話、佳代のお客さんになってくれた女性の話など尽きない。

 「佳代ちゃんは相変わらず頑張っているんだね。僕も慣れない土地で目の前の事だけをがむしゃらに頑張ったよ。今は、会社の人達や住んでいる場所にも慣れて落ち着いてきた所だ。」

 「以前、佳代ちゃんがお休みの日に僕の所に着たいと話していた時は、ハッキリ返事ができずにごめんね。今なら、気持ち的に余裕もできたからいつでもどうぞ!」

 オサムは少し照れながら、ふざけたように笑いながらいつでも九州に会いに来て!と佳代を誘った。

  「今日は、一日佳代ちゃんとゆっくりできるんだ。今夜はホテルを取ってあるから、明日の木曜日の夕方、福岡に戻れば次の日、会社には間に合うからね。」

 お昼は、梅田にある最近はやりのイタリアン料理に連れて行ってくれた。どれも佳代の知らない料理ばかりだったが美味しくて楽しくてあっという間に時間は過ぎた。

 二人、ゆっくりコーヒーを飲んだ後、梅田のデパートで買い物があるとオサムが言うので佳代は従った。四階の鞄売り場で、オサムの通勤に使えるようなビジネスバッグを選んだ。普段も使えるように少しカジュアルな若者らしい三通りに使える本革のバッグが気に入った。

 「佳代ちゃんにもバッグをプレゼントしようと思っているんだ!女性用のバッグは、すぐそこだから一緒に選ぼうよ!」

 「えぇ~!私はいいよぉ。あまり出かける事、ないしね。」

 「そうなの? じゃアクセサリーにする? そうだ、時計がいいね! 何かプレゼントするって決めてきたから。お金の事は、心配いらないよ会社からボーナスが思った以上にあったからね!」

 そう言ってオサムが佳代の肩に手をまわして、時計売り場やアクセサリー売り場に誘った。

 「ほら、佳代ちゃん。この時計、小さくて綺麗で可愛いでしょ!これは、どう?」

 何点かカウンターの上に出してもらってオサムが選んでくれた時計に佳代は頷いた。

 「本当に良いの? ありがとう。嬉しい!」

 オサムが好きで好きで恋しくて会えない日々を思い出すと、その日の佳代は最高に幸せだった。 毎日、アパートと化粧品店の往復だけ、楽しみなんて細やかなものだった。今の佳代は尚更、オサムからのプレゼントも優しさも嬉しかった。

 こんなに楽しい時間、次はいつ訪れるのだろう?そんな事を考えてオサムと並んで歩く御堂筋の五月の街並みは街路樹が鮮やかに光を反射してキラキラ綺麗な二人の世界だった。

 「疲れた?この近くのシティーホテルを取っているんだよ、休憩していく?」

  オサムが佳代に聞いた。佳代も少し歩き疲れたので頭を一度下げて頷いた。二人は今夜、オサムが宿泊する予定のホテルの一室に入った。

 「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。ほら、僕の荷物もそこに広げてあるだろう。今から、さっき買った、このバッグに詰め替えようと思うんだ。佳代ちゃん、手伝ってくれる?」

 オサムは、笑いながら冷蔵庫の中のオレンジジュースをガラスコップに入れてくれて、一人用応接セットのテーブルの上に置いた。

 「はい、私手伝います。何をすればいいのかな? 新しいバッグに全部入れ替えましょうか?着替えもしわにならないように畳み直さないとね。」

 佳代は、荷物の入ったスポーツバッグの中身を新しいバッグに入れ替えようと膝をついて洋服を畳んでいると、後ろからオサムに抱すくめられた。佳代は、この部屋に入った時から心臓が飛び出そうになるほどドキドキして緊張していたのだ。

 「佳代ちゃん、大好きだよ!好きでたまらないよ!」

 オサムの声はかすれていた。佳代は心の中で覚悟していた事だ。これからどうなるのか、何も分からないがオサムに任せていよう。お店で美緒ちゃんや主任さんが腑避けて男の人の体の話をする度に佳代は未知の世界だった。それが現実になった、佳代の大好きなオサムとの情事が始まるのだ。

 オサムは佳代を優しくベッドに運んでキスをしてくれた。男前なオサムは大学生活の頃モテていたと、クリスマスパーティーの時、オサムの友達が言っていたことがある。それに、アルバイトにバーテンをしていたのだ、女性の扱い方は慣れていたようだ。佳代は二十一歳になってもまだ処女だった。オサムはそんな佳代が好ましく大切にしていた。

 気が付かないまま、佳代は着ていたカーディガンやスカートを脱がされて下着姿だった。恥ずかしくて佳代は目を閉じていた。佳代の体は透けるように白く、胸の膨らみにある先は薄いピンクの蕾のようだった。オサムは壊れ物を扱う様に大切に唇で優しく佳代の体に触れた。そして、佳代と繋がった。

 「大丈夫?佳代ちゃん、大丈夫?」

 オサムは、佳代を優しく気遣いながら何度も何度も体が波打つように動き、声をかけて果てた。佳代はその痛みを耐えた後の幸せは、口では言い表せないほどの幸せな体験になった。大好きなオサムと体も心も繋がっていると思うと嬉しかった。

 その日の夕方、佳代を送ってきた天王寺駅側のラーメン屋で二人は食べ、佳代のアパートまで送ってくれたオサムと別れを惜しんだ。

 「いろいろありがとう。このプレゼントの時計、大切に使います。明日は、気を付けて福岡に戻ってくださいね。また、手紙書きます。お仕事、頑張ってね。」

 佳代は、そう言いながら涙を浮かべていた。そんな佳代を見てオサムは辺りをきょろきょろと見渡した後、佳代のおでこにキスをして、手を振って帰って行った。

 佳代は、自分の部屋に戻り椅子に腰を掛けて、今日一日の出来事を目を閉じて考えていたその時、ドアをノックする音が聞こえてきた。

 「佳代ちゃん!居る?美緒です!今日、買い物に難波まで出たからお土産にケーキ買ってきたよ、一緒に食べない?」

 「え~!ありがとう。どうぞ中に入って、今、紅茶を入れるね。コーヒーが良い?どっちも最近買ってきたから新しくて風味が良いよ。」

 「そう?じゃ、紅茶にしようかな!」

 そう言いながら、美緒は部屋に入りテーブルにケーキの箱を置いた。

 佳代は、湯を沸かそうと、ガスにやかんをかけてから、小さなお皿を二つ出してケーキを並べた。

 「うわぁ~美味しそうなケーキだね!高かったんじゃないの?ありがとうね!嬉しい!」

 オサムとの余韻がまだ体に残っていたが、美緒の心使いが嬉しくて明るく笑顔で接していた。そのうち、美緒にも聞いてもらいたいと思う。今は美緒との関係は、佳代の親友と言える間柄だった。

 やかんのお湯が沸騰するのを見つめながら佳代は幸福感でいっぱいだった。カップに茶こしを置いて、紅茶の缶を開け風味を楽しみ、ティースプーンに二杯の茶葉を入れ熱湯を注ぐ。すると、ダージリンの香りが部屋中に行き渡り、美緒と佳代は、顔を見合い嬉しそうに笑顔が溢れていた。

 「佳代ちゃん、美味しいでしょう。このケーキ、前にも買って食べたんだよ。美味しくて、今度佳代ちゃんと一緒に食べようと思って買ったきたの!紅茶も良い香りで美味しいね。」

 「美緒ちゃん、ありがとう!美味しいよ。ん~しあわせだね!」

 美緒と一緒にケーキを食べ、お茶を飲み少しだけおしゃべりをした後、美緒は自分の部屋に戻って行った。

 佳代は、今日一日が佳代にとってどんなに幸せで楽しい一日だったのかと思うと興奮して今晩は眠れないかもしれないと思った。そして、まだ大阪にいるオサムの事を考えて胸がキューンと締め付けられるほど苦しかった。

 これが恋というものなのかと独り言をつぶやいていた。

  明日から店は化粧品デーの売り出しだ、朝早めに行ってポップを描いて。さぁ頑張らなくちゃ。


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大阪暮らし9 小さな夢

「山下佳代さん!山下さん!本の準備ができていますよ。」

 図書館の女性職員が佳代を呼んでいる。お願いしていた本を書庫まで取りに行ってくれて、貸し出しの本が用意できたと、読書スペースの椅子に座っている佳代の方を見て呼んでいた。

 今日は、佳代の勤めている店の定休日、借りていた本を返却にきたのだ。最近、はまっている作家さんの新刊を借りたいと思い、予約していたのだった。

 オサムと会えなくなってから、この中の島の図書館へ来ても佳代は張り合いが無い。気候の良い日には外のベンチで本を読んでいると、いつの間にかオサムが佳代に気が付かない様に側に座って本を読みだし声をかけて驚かせてくれた。今は九州にいるのだ。寂しい。

 昨年のクリスマスの夜にアパートまで送ってくれた時、オサムと初めてキスをした。大きな手で佳代の肩を抱き寄せ優しくおでこにキスをした。そして、唇にキスをされた時、一瞬嫌な思い出が蘇った。

 あれは、オサムがバーテンのアルバイトをしていた店に示談に出向いた佳代は、北田という男に、突然キスをされた! 事故の様な嫌な出来事。今も蘇る、唇にこんにゃくの感触。佳代は、人生で初めてのキスがこんな気持ち悪い思い出になったのかと一週間ほど落ち込んだ嫌な記憶。

 今回のオサムとの初めてのキスで、あの嫌な唇の感触を私から払拭させてくれたオサムの素敵なキスは今も忘れられない。

 あの時のオサムの唇はどこまでも優しく柔らかく、オサムの鼻先が佳代の鼻先に触れそうになる瞬間、佳代は夢心地で全身の力が抜けていた。佳代は寂しくなるとオサムの優しさや甘い匂いを思い出す。オサムに会いたい。

 図書館の帰り、商店街の八百屋に寄ってキャベツを買った。側の肉屋で豚肉を買い、今日の夜はお好み焼きを作ろうと思った。お昼は節約して菓子パンで済ませようと牛乳と一緒に食べた。美緒ちゃんを夕食に誘おうかな、どうしようかな、佳代は迷っていた。

 お昼を食べた後、佳代は部屋で本を読みながらうとうとしていた。昨夜、あまり眠れなかったのだ。先日の事が頭から離れない。二年先輩の頼子は最初から少し苦手なタイプだったがあそこまでずけずけと言うとは思っていなかった。頼子は、自分の思った事をストレートに言葉に出す。あの時、佳代が客に頼子の事を悪く言って客を取ったと思っているのだ。

 主任の武田さんが頼子にちゃんと話しておくと言っていたが、結局店が終わって帰りロッカーでも、あからさまにツンツンして居心地が悪かった。美緒も何も言ってくれなかったのが悲しかった。それでも、生きていくためには仕事を頑張っていくしかない。せっかく艶ちゃんが紹介してくれた仕事先だ。佳代にとって条件が良すぎる程なのだから。

 佳代は、毎月のお給料から節約して少しずつ貯金もできるようになった。今までの松屋町の住み込みで働いていた時よりも数倍貯金が増えている。自分の自由な時間も今はある。後、数年頑張れば纏まったお金ができるだろう。そうなると、住むところを探してアルバイトをしながらでも、いつか美容学校に行けるようになる。何時か将来はメイクアップアーティストになるんだ。と、夢を持っていた。

 「化粧品を揃えて欲しいのよ!基礎化粧品からメイクアップの化粧品までね。化粧品の値段は気にしないで。貴方が良いと思うのをこのカウンターに並べてほしいの!実は、今使っているの全部嫌になってしまったからね!」

 午後のお昼休憩が終わって店のカウンターに入ったところだった佳代の前にスラっとした背の高い化粧の濃い若い女性が立った。目元の化粧が濃かったが可愛い目で美形な顔立ちだった。この女性は、お化粧の仕方一つで女優の様に美しく出来る自信があると佳代は心の中で思っていた。

 化粧品を一式、それも値段を気にしなくて良いのだ。高額の購入客になる。佳代はこの客が自分の客になったらと、少し期待した。

 「ありがとうございます。今、揃えますね。まず、基礎化粧品はこちらでどうでしょう?このメーカーで、最上級の基礎化粧品です。最初に、柔軟化粧水でお肌を柔らかくして、この後使う乳液を浸透させやすくなっています。しっとりと滑らかにお肌にとても良い成分で香りもとても良い香りで。その後、収れん化粧水でお肌を引き締めます。夜お休みになる前には、この後でナイトクリームを付けてお休みくださいね。」

 「お肌のお手入れをする場合は、このクレンジングクリームでお化粧を落として、柔軟化粧水でキレイに拭き取りマッサージクリームでマッサージをします。マッサージが終わるともう一度柔軟化粧水で拭いて、乳液、収れん化粧水、ナイトクリームの順番です。」

 「宜しかったら、今からお肌のお手入れをさせてもらいますよ。お客様にお時間がありましたらですが。」

 と、佳代は一通りの化粧品を並べてクリームの蓋を取って香りを客にかいでもらった。

 「そうねぇ。良い香り!うん。時間、あるよ。じゃ、マッサージやってもらおうかなぁ。メイクアップの化粧品はその後で又、貴方が選んでね!今買うこの化粧品の封を切って使ってくれたらいいから。使う順番もしっかり聞きたいしね!」

 「実は、私芸能界で働いているのよ!あなた興味ある?」

 そう言って彼女はマッサージルームに入った。佳代は、カウンターに並べていた最高級品をマッサージルームに運んで準備をしていると、彼女はおしゃべり好きなのか次々話題を変えて佳代に話しかけてくる。佳代よりも少し年上の様な気がする。佳代にとって嫌な客ではない、若い佳代と気が合うという雰囲気をかもしだしている。

 いつも、化粧品の売り上げはあまり意識しないようにしていた。大抵は一品、二品、の客が多い中、数万を超える買い物はめったにない事なのだ。佳代は心の中でテンションが上がっていた。三十分ほどマッサージルームでおしゃべりをしながら買ってもらった商品で肌の手入れを終わらせ、店に備え付けのメイクパレットやファンデーションで佳代がメイクアップをさせてもらった。

 「いやぁ~!すごい上手だねぇ!私じゃないみたい!キレイに見える!ありがとう!又次、来るからメイクの仕方教えてよ!すごいわぁ。」

 若い客はとても驚いて佳代に感謝してくれた。佳代は嬉しかった。ゆっくりメイクアップをさせてもらって少しだけ自信が付いたのだ。カウンターに戻り彼女の希望通りのメイクアップ用品全て揃えてお会計をしてくれた。客一人の単価、今月一番の売り上げの日だった。そして、美しい若い女性の三輪明美さまは、佳代の客としてあの分厚いお客様台帳に記入してくれたのだ。

 「佳代ちゃん、良かったねぇ!この店でファーストファイブに入る上客さまかも知れないよ!ご苦労様!芸能界で働いているんだってね、また友達を連れてきてくれるかもよ!」

 なんと、今まで心地無かった美緒ちゃんが佳代の入っているカウンターに近寄ってきて労ってくれた。他の人も佳代がレジをしていると、笑顔を向けてくれた。あの先輩の頼子だけは、無表情だったが佳代は気にしなかった。いつかは、分かってくれるだろう。

 「美緒ちゃん、ありがとうね!私の本気のお客様一号かも知れないよ。嬉しいよ。」

 佳代は、心からそう思ったが売り上げよりも 美緒の顔を見て、 美緒との仲が元に戻ってくれた事が嬉しかったし、感謝した。最近寂しかったので、余計そう思った。その日の帰り、ロッカールームで普段話さない先輩からおめでとうの言葉をもらった。もう一人の先輩も笑顔で佳代の顔を見てくれた。

 その日の晩に、佳代は嬉しくてオサムに手紙を書いた。前回の手紙の返事がまだ来ていないが話したくてしょうがなかった。 今日一日あった事を事細かに書いた。前回の手紙に美緒ちゃんと上手くいかない事も、一人で寂しいと泣き言を書いてしまった事も反省していた。

 六月に入り慌ただしく毎日が過ぎていった。社員旅行の当日、社長から店で説明があった。

 「えー!今回の社員旅行は静岡の温泉地です。宿泊する旅館は、テレビでよく宣伝しているあの大きな旅館らしいですよ。支店のみんなも途中合流する予定で、化粧品メーカーのセールスマンも数名参加との事です。あちらが主催者側なので詳しい事はお任せしています。皆さん怪我のないように気を付けていきましょう。」

 天王寺のお店の従業員女性八名と支店の人達と天王寺駅で合流するらしく社長は上機嫌で説明をしていた。

 


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大阪暮らし8 遠距離恋愛

 「夏美ちゃん、連絡ありがとう!嬉しかったよ。夏美ちゃん、仕事慣れてきた?夜の仕事って大変でしょう?生活が変わるもんねぇ。教えてもらった店の場所が分かりにくくて通っている人、二人に聞いてやっとこの店に辿り着いたよ。」

 「内のアパートの管理人さんは午前中、いつも留守にしてるから夏美ちゃん電話くれるなら水曜日の夕方が一番いいよ。私、水曜日休みだから大体夕方はアパートにいるから。また電話してね。」

 土曜日の夜、仕事が終わって佳代は夏美の働く心斎橋のクラブに遊びに来た。佳代は一月に二十歳になったので、お酒が飲めるのだ。夏美に教えてもらったお店は、心斎橋から宗右衛門町に入った場所にある小さなクラブだった。

 松屋町で夏美と佳代、二人暮らしだった頃。昼間、化粧品店の仕事が終わると夏美がよく通って、遊びにきていたお店だと言っていた。

 店に入ると、知らない世界の雰囲気が佳代を緊張させた。薄暗い店内には、キラキラしたシャンデリアの薄いピンクの灯りに天井からぐるぐると回る照明。そんな空間の中、アンティーク調のテーブルが五個並び、大きな観葉植物の奥にもテーブルが五個並んでいた。

 奥のテーブルまで縦に長いカウンターがずっと奥まで続いていて、若い男性のバーテンさんが三名入っているようだ。バーテンさんの前にはキレイな女性が座って楽しそうに、おしゃべりしながら、綺麗な色のお酒を飲んでいた。佳代が店に入った時間が七時過ぎだったので店は混んでいなかった。テーブルの客の横には女性のホステスさんが両脇に座っていた。

 「あっ!佳代ちゃん来てくれたんやねぇ。ありがとう。もう、二十歳になったと思ったから誘ってみたんよ。早速来てくれて嬉しいよ。ありがとう。」

 夏美は、佳代が来るのを待っていたようで店に入ると店の奥の方からやってきて佳代のそばまできてくれた。きょろきょろと落ち着きのない佳代の様子に余裕で笑いながら奥の方へと、案内してくれたので佳代は安心した。

 夏美がバーテンさんの顔を見て暗黙の了解なのか一番奥のテーブルに座るように言われて佳代と夏美は二人向かい合って座った。

 「佳代ちゃん!新しいお店少しは慣れてきた?講習会上級まで進んだんやろう?もうメイクやマッサージもお客様にしているんやろう?たくさんの店員さんが居てたら気い使って疲れるやろうなぁ?まぁ、佳代ちゃんはいつも明るいから落ち込む事もないやろうから、心配はしてへんけどな。」

 「そうや、何か飲む?無理にお酒を注文せんでもジュースでもええねんで!今日は私が招待してんからマスターにも言うてる。でも、二十歳になった記念に一度お酒飲んでみるか?甘いカクテル作ってもらったろうか? 桃のカクテル甘くて美味しいよ、お酒やけど口当たりがええから経験の為佳代ちゃん一度飲んでみいぃ!」

 夏美は、佳代が来てくれて嬉しそうだった。そして、夏美の友達である佳代を店に招待させる経営者のマスターも優しい人で夏美の職場の環境も良い感じで恵まれていると佳代は安心した。夏美の言葉に佳代は甘えてカクテルを頼んだ。

 「うわぁ~キレイなお酒!ピンク色!グラスも小さくて可愛いねぇ。」

 佳代は目の前の、初めてのお酒で興奮していた。少し飲んでみると甘くて後口が桃の香りで美味しかった。店の雰囲気と言いお酒といい佳代は大人になった気分で気持ちが、胸の奥がほんわりした。

 「あぁ~佳代ちゃんお酒、飲めるやん!美味しいやろう?でも一杯だけにしときやぁ。帰り一人で帰らなあかんねやからね。会計は今日は私のおごりやから!」

 夏美が心配して言った。暫く二人は近況を報告しあって満足した頃、店に少しずつお客が入って賑やかになってきたので佳代は店を出た。今日は仕事が六時に終わるとすぐにアパートに帰って着替えて心斎橋にやってきたのだ、佳代はお腹が空いていた。さっき飲んだ一杯のお酒が頭の芯を緩くしていた。

 アパートに帰る途中、天王寺のいつもの総菜屋で店じまい前の店先に盛ったコロッケを買って帰り、昨日買ってあった食パンにコロッケを挟んで夕食にした。明日は、日曜日で忙しい日、化粧品のイベントの日なのだ。朝から佳代は一番先に出勤して、店の表に貼るイベントのポップを描かなければいけないので、明日の準備をして銭湯にでかけた。

 「あっ!佳代ちゃん。今、お風呂?私はもう上がって帰ろうかと思ってたよ。明日、佳代ちゃんは早出だね、ポップ描くの上手だからいつの間にか佳代ちゃんの仕事になってしまったね。今日は出かけてたんでしょ。疲れてるだろうから早く寝てよ。じゃ、また、明日店でね!」

 仲良しの美緒と銭湯で偶然会った。最近、店で美緒は以前の様に昼休みにも帰りにも、佳代にくっ付いてこなくなっていた。原因は分かっている。店に出入りする大手化粧品セールスマンが原因なのだ。そのセールスマンが美緒のお気に入りなのに最近、佳代によく声をかけてくる、佳代はまったくその気は無い。

 美緒は、佳代に好きな人がいる事もクリスマスパーティーや誕生日のプレゼントをもらった事も知っていたのだが、心は複雑なのだろうと思い佳代は、その事には触れない様にしている。

 「佳代ちゃんお元気ですか?僕の勤務先が決まったよ。本社のある大阪かと思っていたら、福岡支店になった!数年したら本社に戻れるらしいけどね。あぁ~佳代ちゃんと前の様に会えなくなると思うと辛いよ。大阪と九州福岡だと遠いよねぇ。会いたいよ!仕事、忙しくしてる?」

 「僕の会社は建設会社だから学校やマンションや道路やトンネルを作ったり色々だけど僕は福岡支店で公共の工事に携わる仕事でね、思っていたのとちょっと違ったけどまぁ、これも勉強だからね、がんばるよ。また、手紙を書くね。 石田理より。」

 四月の中旬に福岡勤務になったオサムから手紙が届いた。三月までは月に一度ほど、天王寺のお店にも男性化粧品を買いにきてくれていた。いつも店が終わる間際に来て佳代の仕事が終わるのを待ってくれて近所の喫茶店でコーヒーを飲み、お互い最近読んだ本が面白かったと言い合い、おしゃべりを楽しんだ。オサムはいつも優しく佳代を見守ってくれていた。

 「オサムさん、お手紙ありがとうございます。九州福岡ですか?もう、そちらに住まれているんですよね。大阪にはいないのですよね?寂しいです。会いたいです。今は、仕事も少しは慣れてきたのですが人間関係で疲れています。」

 「仲良しだった美緒ちゃんが離れてしまいました。美緒ちゃんが好きな人が店によく出入りする人で時々私に話しかけてきます。私はどおってことないのですが、美緒ちゃんにとって嫌な事なのですよね。仕事上その人と話さない訳にはいかないし、美緒ちゃんは、私がオサムさんを、好きな事知っていると思うのに…。」

 「ごめんなさい。なんか、変な手紙になりました。そのうち美緒ちゃんも分かってくれると思いますよね。美緒ちゃんとその人が上手く行くように願っています。」

 「私のお店で、六月に社員旅行があります。静岡の温泉地らしいです。楽しみです。その前に一度、そちらに遊びに出かけても良いですか?でも、無理ですよね私のお休みは水曜日。オサムさんのお休みは日曜日でしょう。ごめんなさい、忘れて下さい。無理な事を言ってしまいました。 また、手紙書きますね。 佳代より。」

 五月に入り、近所の公園や商店街への街路樹、街並みが新緑の美しい佳代の好きな季節となっていた。朝から清々しくお店に入り忙しく働いていた佳代に、思いがけず二年先輩の頼子さんからクレームがきた。

 数日前、頼子さんが用事で代休を取っていた時に佳代が接客したお客様が頼子さんのお客だったと言われた。今日、その客から佳代に指名がきたのだった。

 「佳代ちゃん!安田さんが佳代ちゃんにマッサージをお願いしたいと言っているの!私がお休みの日に接客したの佳代ちゃんよね!安田さんに何か言った?私の客を取らないでよ!」

 佳代の側に来て、カウンター越しに小声で言うが頼子はすごい剣幕だった。安田さんは、すでにマッサージルームに入っているらしくマッサージを始めようとすると佳代にやって欲しいと言い出したそうだ。

 「頼子さん。私は何も言っていませんよ。あの日、皆さん手が空いていなくて主任の武田さんが佳代ちゃんがやってくれたら良いから、後日私の方から頼子ちゃんに言っとく!って急かされた事は覚えていますが。化粧品もその日は買ってもらっていませんし…。」

 佳代が困っていると、近くにいた主任がきて頼子さんに事情を話してくれた。頼子さんも分かってくれたのかと思っていた。

「お客様の安田さんを待たせているのは良くないから、ご要望通り佳代ちゃん!マッサージをするように。」

 と、主任に言われて佳代は頼子さんの顔を見れず、マッサージルームに入った。その日の仕事は帰りまで気まずく憂鬱だった。以前なら美緒ちゃんが飛んできて佳代をフォローしてくれたのにと思うと寂しかった。いつになったら美緒ちゃんは分かってくれるのだろう。

 


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大阪暮らし7 デート

 「ごめん、ごめん。佳代ちゃん、待った? 先週の水曜日僕は来れなかったから今日は、ちょっと心配してたんだ。佳代ちゃん、きっと待っているだろうなぁって思ったけど連絡のしようがなくて。アパートの管理人さんの電話にかけたけど留守だったみたいで繋がらなくてね。」

 中之島の図書館がある建物の前に、石田理は息を切らせて走ってきた。

 「あっ、私も今来たところです。先週も図書館で探していた本が気になっていたので大丈夫です。多分、忙しいバーテンさんは、今週だろうなぁって思っていましたから。」

 「あははは。佳代ちゃん、そのバーテンさんってのはちょっとね。これからは、僕の事オサムと呼んでよ。理と書いてオサムって言うんだ。」

 「はい。オサムさん、そうします。」

 佳代は、嬉しかった。気さくに話せるオサムさんと今日は映画を観にいくのだ。二人は心斎橋の映画館まで歩いた。歩きながらオサムの話す、今日観る映画の説明を聞き逃すまいとオサムのすぐ横を並んで歩いた。

 佳代は、大阪にきて初めての映画鑑賞だった。オサムと観る映画はカトリーヌドヌーヴのシェルブールの雨傘というミュージカル映画だった。

 「私、楽しみです。映画は大阪に来て初めてなのでずっと憧れていました。今日は誘ってもらって嬉しかったです。ありがとうございます。」

 「そうかぁ。良かったよそんなに喜んでもらって。でもまだ観ていないからなっ。」

 佳代と並んで歩く笑顔のオサム。夢中で話すオサムの横顔を佳代はずっと忘れないだろうと思った。

***

 阿倍野にある佳代が勤める化粧品店は年末商戦の真っただ中だった。各メーカーのセールスマンが度々店に訪れては在庫の確認をした後、応接室では社長と話し込み化粧品を売り込んでいた。

 クリスマス前にも化粧品が良く売れていた。各従業員は、自分の客を大切にするために店の奥のカウンセリングルームに誘って、お客様の顔のマッサージや手入れを行いお勧めの化粧品を買ってもらう。

 佳代は、まだ自分の客は付いていない。やっと化粧品の説明や商品の置いてある位置など覚えたところだった。

 「佳代ちゃん、ちょっと来てくれる!? こちらは、近所の団地に住んでいらっしゃる道端様よ。ちょっと口紅を選んでさしあげて!台帳を見ながら過去の色を確認してね。」

「道端さま。この娘は佳代ちゃんです。今年の秋に店に来たばかりですがセンスはいいんですよ。どうぞ御ひいきにしてやってくださいね。」

 主任の武田さんが佳代を紹介してくれた。

 道端様は、主任の上客だった。気心も知っている道端様を佳代のお客様にしてくれようとしているのが分かり佳代は緊張したが嬉しかった。最近もまだ雑用や店先の小物ばかり売っていたのだ主任は、それを知っていて気使ってくれたのだろう。

 佳代は、カウンターの上にある重そうな台帳が道端様のページに開かれているのを見ると主任が準備してくれたのだと感謝した。台帳には、住所や氏名、好みの色や過去に買った化粧品の名前がずらっと書いてあった。

 「道端様。黒髪がとてもきれいですね。今まで、薄い色の口紅が多かったように思いますが、今回は思い切ってもっとはっきりとした赤い口紅はどうでしょう?黒髪と良くあってお顔だちが明るく見えて若々しくなりますよ。」

 道端様は黒髪を肩まで垂らして前髪を一本のヘアピンで止めてあった。佳代から見ると50代の半ばだろうと思うが個性的な人だと思った。ピンク系が好みと書いてあるがハッキリとした赤系の色がこの方には似あうと思った。佳代の手の甲に今まで使っていた薄いピンクと並べて赤系の色を塗って見てもらった。

 「そうねぇ。クリスマスも近いし、赤い色も試してみようかしら!?でもちょっと勇気がいるわね。一度唇に塗ってもらえる?」

 「はい。分かりました。どうぞこちらへ!」

 佳代は、初めて奥の部屋までお客を案内した。大きな鏡の前に座ってもらい佳代が選んだ赤い口紅を塗ってさしあげると道端様には印象的な黒髪と赤い口紅がマッチしてよくにあっていた。

 「そうねぇ。今まで赤い色は勧められても付けた事なかったけど若い貴方から見てへんじゃないのなら、これからも赤を選んでみようかな?コレ、下さる。今日は時間がないので基礎化粧品はまた今度ゆっくり時間がある時にくるから、今度は、佳代ちゃん選んでね。」

 満足した様子で道端様が笑顔で言ってくれた。佳代のお客様第一号になってくれたのだ。これも主任のおかげだと感謝した。

 「佳代ちゃん、良かったね。主任、いいとこあるよね流石主任だわ。自分の上客を佳代ちゃんに紹介してくれるなんて。他の皆とは言わないけど、なかなか譲ってくれないよ自分の客は取られたくないんだから。ぴりぴりしている感じ、嫌だね。」

 お昼休憩に入る前に同い年の美緒ちゃんが声をかけてくれた。店の従業員の先輩方は売り上げを競っているらしく美緒ちゃんの話では、其々毎日化粧品の何を売ったかメモっているそうだ。それもそのはず、賞与の時やイベントごとに金一封がでるらしい。

 佳代はまだそんな話は主任の武田さんから聞いていないがいずれあるだろうと思った。

***

 「あっ!佳代ちゃんごめんね、待った? おっ!今日は一段とおしゃれだね。可愛いよ。そのワンピース、佳代ちゃんに良く似合っているね。」

 クリスマス当日、約束の時間を少し過ぎていた。オサムが慌てて走ってきた。佳代の服装は、この日の為にお昼休憩の時間に美緒と一緒に選んだものだ。佳代が勤める化粧品店の並びの洋品店で、花柄のミニのワンピースを何度も迷って選んで買った。

 店の前を通る度に、「可愛いね、このワンピース欲しいね」と、美緒といつも話していたのだった。

 佳代の整った顔立ちとスタイルの良さが際立っていて、人目を引くほど良く似合っていた。お化粧もナチュラルだが佳代の良い所を生かすことで品の良いお化粧だと社長も褒めてくれるほどだった。

 待ち合わせの場所は、道頓堀川にかかっている戎橋の上。待ち合わせの場所にうってつけの分かりやすい場所だったが年末はいつもに増して人通りが多くごったがえしていた。

 心斎橋のパーティー会場へは少し遠いが先に食事をしてから行こうとオサムが言い出して心斎橋ミツヤで食事をすることになった。純喫茶ミツヤは洋食が評判のお店で若者から子供までが喜んで入る店だった。

 オサムと一緒だと経験した事のない事ばかりで緊張するが佳代はいつも心躍ってわくわくしていた。

 「佳代ちゃん、何にする?僕は、ナポリタンスパゲティ!にするよ。」

 オサムがメニューを広げて佳代に聞いた。佳代は、どれもこれも美味しそうで迷ってしまう。食い入るように佳代がメニューを見て、決めかねていると。

 「佳代ちゃん、オムライスも美味しいって友達から聞いた事があるよ。試しに頼んでみる?」

 「はい。そうします。」

 佳代は、オサムの言う通りオムライスにした。しばらくして運ばれてきたオムライスとスパゲティ!目の前の美味しそうなオムライスにはメニューの写真の通り、鮮やかな黄色いタマゴの上にデミグラスソースがかかっていた。

 佳代が今まで知っている赤いケチャップではないのも驚いた。

 オムライスの匂いが、佳代の食欲を旺盛にしていた。全部、残さずあっという間に食べてしまって、顔を上げるとオサムはまだスパゲティを食べている最中だったのだ。恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまって焦った。

 佳代は体中に冷や汗をかいていた。そんな佳代を見てオサムは可愛いなぁと思っていたのだ。

***

 年が明けて一月も下旬、オサムから手紙が届いた。

 「佳代ちゃん、お誕生日おめでとう。二十歳だね。お酒も飲めるし選挙権もある。大人になっておめでとう!クリスマスパーティーは楽しかったね。あの日の佳代ちゃんの事が僕の友達たちの間で評判になってね、僕は鼻高々だったよ。皆、口を揃えて佳代ちゃんがキレイで素直で良い子だって言ってくれたんだ。」

 「僕は、卒論も提出してこれで気がかりな事もなくなり大学生活が終わる。後数か月で就職先の会社からの知らせで勤務先が決まり社会人となるんだ。どこに決まろうと佳代ちゃんとこれからも付き合っていきたいと思っているよ。 高価な物はまだ無理だけど心からお誕生日のプレゼントを贈ります。又、手紙を書きます。 石田理。」

 佳代は嬉しかった。佳代の誕生日を覚えていてくれた事が。封筒の中には薄白い紙の中に、トップに小粒の真珠が付いたネックレスが入っていた。これから先のオサムとの付き合いが嬉しくて喜びに心ときめいていた佳代だった。

***

 佳代が勤める阿倍野の店では、一月に成人式を迎える従業員がいれば、その人たちの為に食事会が開かれる事になっていた。今年は、佳代と美緒ちゃん二人が二十歳になる。成人式に故郷に帰れない人の為に社長の気遣いだったのだ。

 そして、社長の気遣いもまだあった。社長の奥さんが一人一人の故郷の両親の元に暮れになると、温かい衣服を贈っていた事もこの店の先輩である美緒ちゃんから聞いて佳代は、初めて知った。きっと今年は、佳代の田舎にも贈ってくれているのだろう、今度田舎にも手紙を書こうと思っていた。

 「佳代ちゃん、今度の私たちの食事会の時に発表があるらしいよ、今年の六月の恒例の慰安旅行の行き先が!今年は、化粧品メーカー会社の招待らしい。うちの店が昨年の化粧品販売売上のトップだたんだって。静岡の温泉に、ご褒美旅行だと社長が話していたのを応接室にお茶を出していた、二年先輩の頼子ちゃんがチラッと聞いたらしいよ。」

 美緒ちゃんが大きな目をくりくりさせて嬉しそうな顔で佳代に話した。その噂は店の人達全員にいきわたり店の空気も、今まで以上明るい毎日となって朝礼のミーティングでも笑顔が絶えなかった。

 化粧品アドバイザーも大変な仕事だが昨年と大きく変わった佳代の生活だが、石田理の事もお店の事も生きる希望で膨らんでいた佳代だった。

 夏美ちゃんは元気に暮らしているだろうかと、ふと、思い出していた。

 

 


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僕の失恋8 短編

 和歌山から名古屋に戻り、僕の部屋に帰ったのは、夜の十一時を過ぎていた。

 日帰りは若い僕でも疲れているのに、大阪に戻った母さんには体に堪えただろうと心配になった。 和歌山の社長が亡くなって、母さんもどれだけ辛かっただろうか。一度は愛した男だ、僕という子供までつくった人だったのだ。 僕に真実を話さなければいけない時がくるなんて母は、思ってもいなかっただろう。ごめんよ、母さん。

 社長が亡くなったことで、美子も美子のお母さんもどれだけ心細いだろう。旅館のこれから先の事も心配だけど、美子に真実をどう話していいのか僕は迷っていた。僕も辛いが、僕といずれは結婚できると期待している美子が可哀そうになった。

 今晩、遅くに電話をしてほしいと美子に言ったが、もう零時を回っている。美子も疲れ果てているのだろう、明日の夜にでも僕の方から電話をしてみよう。明日は僕も仕事が早い、先輩を待たせたら大変だ。僕は、明日の書類の準備と着ていく服を用意してシャワーを浴びた。

 翌朝の目覚めは、気分が良かった。昨夜は、いろんな事があったので頭の中を整理していると、眠れないと思いつつ、いつの間にかストンと眠りに落ちて朝まで目が覚めなかった。四月に入ると各支店も決算でバタバタすると先輩が言っていた。早めに出てコンビニで朝食のパンと牛乳を買って駐車場の車の中で食べていたら先輩がやってきた。

 「おう!朝ご飯は、今日もパンか!? 昼まで腹は持つのか? 正人、昨日は知人の御不幸で有給つかったんだろ?遠くまで行ったのか?お疲れさん! さぁ、出かけるか!今日は、買い付けの特訓をするぞ!仕入れが命だ!覚悟しておけ。」

 「はい。和歌山への日帰りですよ。さぁ、では行きますか!?今日も頑張って先輩にしごかれましょうか!?」

 先輩はいつになく明るかった。多分、奥さんと今朝は喧嘩をしていないな?僕は心の中で、独り言をつぶやいていた。先輩の明るい性格が僕の心を和ませてくれる有難い先輩だった。

 明日は金曜日、先輩はいつも木曜日になると何故か機嫌がいい。何故だろう?いつか聞いてみよう。そんな事を考えながら車は高速に入った。

 その日の夜、八時回って和歌山の美子に電話をかけた。 なかなか電話に出ないので一度切って三十分後にまたかけてみた。

 「もしもし。あっ、美子!さっき電話かけたけど出れなかったの?今、大丈夫?心配していたよ。昨日は何も手伝えなくてごめんよ。日帰りだから、母さんの体の事も心配だったんだ。まだ、片付けも終わっていないだろう?旅館の従業員の人たちの手伝いはあるんだろう?」

 僕は、和歌山の旅館の様子を思い浮かべていた。

 「正人。電話をありがとう。昨日はお疲れさまでした。大阪のお母さんも遠い所へきてくれてお礼を言っておいてね。今日一日、旅館の人達とお葬式の後片付けと、これから先の事を話し合っていたの。旅館を続けるかどうか。母がね、頗る回復が早くて退院の日が決まったの。」

 「今日、病院へ行って先生の話も聞いてきたのよ。退院してからの家での過ごし方や薬の事、これからの治療の事も。おかげさまで手術も成功してここまで元気になられるとは!と先生も驚いておられたのよ。正人、あなたに会いたいけど母が退院してきたら、家を空けられなくなるわぁ。一人娘の辛い所ね。」

 「今日の、従業員の人達と番頭さんの専務さんとの話し合いで、順調な運営が続いている旅館を閉める事はないのでは?と、言われたの。母も続けて欲しい、そのうち自分も手伝うからと言っているわ。母は、いずれは正人も帰ってきて旅館の後を継いでくれるのではないかと、結婚にちょっと期待しているのよ。」

 「ごめんなさいね。勝手な事を言っている母を止められなかったの。気にしないで!正人は名古屋での仕事が一番!今は、現実的に無理な事は分かっているのよ。あぁ!ごめんなさい、私一人で喋っているのね。」

 そう言って美子は笑っていた。父親が亡くなって失望しても、自分の置かれた立場やこれから先の生活の基盤を元に戻す事が美子には重要な事なのだろう。

 こんな美子に、僕たちの真実を打ち明けるのは辛い。何をどう話して良いのか見当がつかなかった。美子を傷つけない様に話すには?僕は美子の話し声を聞きながらずっと考えていた。そして、昨日、美子の父親のお葬式が終わったばかりだ。

 急いで話す事はないだろう。美子のお母さんも退院してくるそうだし、番頭さんや従業員さん達と旅館を運営していく事で頭がいっぱいな美子に今、辛い思いをさせるべきではないと僕は考えた。

 「そっかぁ。お母さんの退院が早くなって良かったな。これからは、ますます忙しくなると思うけど体に気を付けて無理をしないでマイペースで頑張れよ。」

 「僕もやっと名古屋で社会人として慣れてきたところだ、忙しい毎日だけど遣り甲斐のある仕事だと思っているよ。お互い、これからも頑張ろう。美子、体に気を付けろよ!無理はするな!」

 それだけ言うのが僕の精一杯の言葉だった。しかし、いずれは美子に話さないといけない事だ。何時か分からないが逃げれない時がくるまで、このままの状態でやり過ごそうと心に決めていた。

 ベランダ越しの窓の外は朝からずっと雨が降っている。空気がジメジメしている六月も僕にとってまんざら悪くはない。

 名古屋の公団での住み心地も気にいっている。母と2人で暮らしていた大阪の帝塚山のマンションとは違い、公団住宅は散歩コースにも窓の外をのぞいても、樹々や季節ごとの花が花壇で揺れていて環境が良い事に最近、僕は気が付いた。

 今日は、久しぶりの休日だ。ここの所毎日、残業が続いていて朝の目覚めが気だるい日が続いていた。美子からの時々くるメールには、旅館の運営の様子が詳しく書いてあるが以前の様に、僕たちのこれからの事は書かなくなっていた。

 僕が曖昧な返事を書いているので美子は何かを察しているのかも知れない。

 旅館は、美子が若女将になってからというもの若い客の獲得が増えて雑誌にも取り上げられて有名になっていた。昔からある旅館だが、若い美子が新しい発想とアイディアであっという間に注目される旅館となってきていた。

 お互い仕事に打ち込んで時間が過ぎる事で見えてくるものもあると僕は思っている。

 さて、雨の中だが空っぽの冷蔵庫の中に貯えておかないと栄養不足になりかねないぞ。まずは、食料の調達に近くのスーパーに出かけようかなと思って着替えているとテーブルの上の携帯が鳴った。

 大学時代の友達、大沼京子だった。京子は時々忘れた頃に電話がかかってくる。

 「おはよう!正人。元気にしてる!? こっちが何も言わないと正人はまったく連絡をくれないねぇ!ちゃんと、生きてるのかね? 私は日曜日も仕事だよ!ちょっと今、さぼって正人に電話しているけどね。たまには、正人の方からかけてきてくれてもいいんじゃないのかなぁ!」

 朝から京子の明るい大きな声が、ボーっとしていた朝にはこっちまで元気が出てくる。最近、夜に一人で悶々と考える日々が多かったせいだろうと思った。

 「今度、四年生の時、時々つるんで遊んでいたメンバーからお誘いがあったよ!正人にも連絡きてる?合コンのメンバーが足らないからどうか?ってね。正人のお気に入りだった礼子さんも今回は登場するってさ!どう?」

 「へぇ~!マジっすか?珍しいねあの秀才が登場するとはね、誰かが強引に誘ったんじゃないの?彼女も社会人になって柔軟になったってことかな? それ、何時の話?最近、残業が多いから僕は、行けるかどうか分からないけど念のため日程を聞かせてよ!」

 「そっかぁ。正人も一端の社会人になったんじゃない!分かった。大学生の時と違って其々の日程を合わすのだ難しいらしくてね、それでも息抜きで楽しもうよ。と話がなったわけよ。来月末の土曜日の七時集合らしいよ。場所はまだ決まっていないって。決まったらまた連絡するからって事で、出席かどうかだけね先に須田に知らせて欲しいってさ。」

 「了解!考えてみるよ。ありがとう。じゃ、仕事、さぼるなよ!またね。」

 電話を切った後、僕は何かが僕の心の中で、吹っ切れたような気がしていた。

 美子との事は自分の幼少の頃から、僕の思春期に抱き続けてきた、掴み切れなかった幻想だったのかも知れない。

 母も、苦しんで生きてきた和歌山の時代から僕の成長を見て解放され、新しい思いを持って大阪に出てきたのだ。今は愛する人と幸せに第二の人生を謳歌している。そう考えると人生って明日の事は分からないのだ。だから面白い。

 今年も、後数日という時に母からハガキが届いた。

 帝塚山の父と一緒にヨーロッパ旅行の途中だと書いてあった。優しそうな義理父は母を慈しむように見ているのが印象的なツーショットだった。

 最近、美子からのメールも来なくなった。

 僕は思っている、勇気を出して、「僕たちは義理の兄妹だ」と秘密を告白してまで、わざわざ美子を傷つけなくても、季節が廻り、このまま抗わず流れに身を委ねるように生きていこうと思う。

 

 

 


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大阪暮らし6 一人暮らし

 「佳代ちゃん、ちょっとこっちに来て!皆に紹介するから。自己紹介をしてもらおうかな?店を開ける前だから、簡単にね!」

 佳代が天王寺の化粧品店「コスメクラブ」での初出勤の日、社長である北雄三がシャッターを開ける前に店の女の子たち八人を集めた。

 「山下佳代と申します。歳は十九歳です。松屋町の化粧品店から、こちらでお世話になる事になりました。どうぞ、皆さんよろしくお願いします。」

 佳代は深々と頭を下げた。社長と二人並んで店の女の子八人の前で対面していた。

 「武田さん!これから先、佳代ちゃんの事いろいろ教えてあげて下さい。アパートも同じだから、そちらの方も見てあげてね!あぁ~。それから、順番に自分の名前を言って佳代ちゃんに教えてあげて!」

 社長が全員を見渡した後、一番右に居た武田さんに声をかけた。優しそうな武田さんは一番年長の様に見えた。八人は、一人ずつ自分の名前を教えてくれた。

 「よろしくお願いします。」

 佳代は、もう一度頭を下げて挨拶をした。そうこうしている内に開店の時間になり其々の持ち場に散って行った。朝、店に入るのが九時。掃除や化粧品の補充、ミーティングが終わると十時になり店を開ける事になっている。

 「さぁ、今日も頑張って店を開けるよ!」

 武田さんが皆さんに声をかけてシャッターを開けた。店の中は、化粧品の陳列されているショーケースのカウンターが、店入り口から入ると右側に一つ、左側に一つ、中央に二つ並んでいる。従業員は薄いピンク色の制服を着てカウンターの中に入る。立ち位置の後ろにはブランドごとに商品が並んでいる天井まである高いケース棚がある。

 「佳代ちゃんは、入り口左側のカウンターに私と一緒に入ってね。カウンターには大体、いつも二人で入る事になっていて助け合って化粧品を販売するのよ。分からない事があったら何でもいいから私に聞いて!」

 武田さんが佳代に気を使って言ってくれた。

 「はい。ありがとうございます。私、まだまだ化粧品の事分からない事だらけで初心者なので教わる事がいっぱいあると思います。よろしくお願いします。」

 一日も早く、化粧品の置いてある位置や皆さんの名前を覚えるのが、慣れる事の一番早道と決めて、休憩時間に武田さんにもう一度確認してメモを取った。佳代は、今までの環境とは全く違い、慣れるのが大変だろうと思うが、今までの自分よりも少しだけ向上していると思った。

 「あっ!佳代ちゃんだったね、朝に挨拶したけど私は山下美緒、美緒ちゃんと呼んでくれたらいいよ。佳代ちゃんと同い年だからよろしくね。アパートも同じだと思うから。」

 「あっ。はい。ありがとうございます。よろしくお願いします。」

 佳代は、同い年だという美緒が声をかけてくれて少し緊張がほぐれた。印象から見て、佳代と一番気が合いそうな雰囲気で内心嬉しかった。

 店を出て、隣の細い階段を上がると二階の食堂が店の休憩場所になっている。食堂の奥が従業員のロッカールームでここで制服と着替えて店に入るのだった。

 お昼休憩は、四人ずつが交代で取っていた。自由に自分で弁当を持ってきてもいいし、側の商店街で総菜を買って食べても良かった。以前の松屋町の店では奥さんが用意してくれたご飯だけでは足らなかったのを思い出す。買いに行く自由もなかったのでいつもお腹が空いていた佳代だった。

 初日の一日は、あっという間に過ぎて閉店まで時間が経つのが早かった。

 化粧品の販売はまったくで、入り口に積上げているハンドクリームや大きな籠の中の安い化粧水、小物類だけで一日が終わった。お客様に化粧品名を言われても、陳列棚のどこにあるのか分からないのでドキドキして緊張が止まらなかった。

 今度、朝早めに来て陳列棚の商品の位置を覚えようと考えていた。

 「佳代ちゃん、一緒に帰ろう。アパートまでの近道や商店街の中を通るからおすすめのお店、教えるよ。」

  ロッカールームで着替えていると、お昼休憩の時話しかけてくれた美緒ちゃんが佳代に声をかけてくれた。

 「あっ。ありがとう。美緒ちゃん。ホント、嬉しいよ。私、心細かったんだ。」

 二人は並んで店を出て、賑やかな通りを抜けて、商店街の入り口からゆっくり歩いた。ビルの中にある店の並びは、旅行会社や呉服屋さんや大きなレストランがならんで都会的だが、少し外れた場所にある商店街に入ると佳代はホッとする。

 「そうだ!さっき帰りに武田さんに頼まれたんだよね。佳代ちゃんにアパートの事や買い物の事を教えてあげてね!同い年の美緒ちゃんと気が合いそうだから。お願いね!って。言われちゃったよ。

 今晩のおかず何にする?買い物して帰ろう。佳代ちゃん何号室?私は二階の十一号室だよ。」

 「えぇ~!良かった。私は、二階の十号室なの。嬉しいわ!美緒ちゃんの隣の部屋だよ。今日は、私の部屋で美緒ちゃんも一緒に食べない?晩ごはんカレーにするよ。ご馳走します。今日はいろいろお世話になったし、食事の後にお風呂屋さんにも一緒に行ってくれたら嬉しいんだけどなぁ。」

 「分かった。じゃ、お肉屋さんと八百屋さんに寄ろう。カレーのルウも八百屋さんに置いてあるよ。佳代ちゃん!お米は買っている?」

 「大丈夫だよ。引っ越しの前に調味料やお米は買っておいたんだよ。調味料と言ってもそんなに種類はないけどね、何とかなるでしょ。でも、美緒ちゃんの口に合うかな。ちょっと心配。」

 長い商店街を抜けると佳代が引っ越してきたアパートがある。「みどり壮」には、入り口を入ると管理人の部屋があり小窓の棚には黒電話が置いてあった。管理人のおばさんは、一度会ったきりだが怖そうな顔だった。

 黒電話の横の小窓はいつも閉まっているので居るのかどうか分からない。

 松屋町で知り合いになったお好み焼き屋のおじさんが、今まで住んでいたアパートの小さな箪笥やお布団を、このみどり壮まで軽トラックで運んでくれたのだった。その時に会ったきりで、見るからに厳しそうなおばさんのイメージだった。

 お風呂屋の様な大きな下駄箱が何列も並び、廊下を挟んで右に五部屋、左に四部屋。隣が共同のトイレになっていた。二階にも同じような部屋数で廊下を挟んで部屋があるのだろう。

 佳代の部屋は、階段を上がってすぐの二階の十号室だった。料理の経験は、住み込みで働いていた松屋町の店で奥さんの代わりに時々手伝っていたので自分の食べる分くらいは作っていた。

 引っ越して来てからは自炊だと思い台所用品を最低限は揃えてあったので大丈夫だろう。

 「美緒ちゃん、カレーを作るよ!私は、牛肉は使わず豚肉で作るのが大好きなの。美緒ちゃん豚肉は大丈夫?食べられる?」

 「佳代ちゃん、ありがとう。私豚肉大好きだよ。それに、カレーも大好物だぁ!」

 そう言って美緒ちゃんは満面の笑みを佳代に向けた。

  夕飯が終わり、二人は近所にある銭湯へ行った。今度のお風呂は湯舟が三つあったので面白いと思った。小さい湯舟は多分小さな子供用なのかなぁ。佳代は、お風呂につかると一日の疲れがとれて気持ち良かった。新しい生活が始まって、こっちに引っ越して来て初めてリラックスできた時間だった。

***

  九月から天王寺にある今の、このお店に来てからというもの店とアパートの往復で毎日の時間が慌ただしく過ぎて佳代の新生活も少しずつ慣れた秋口の十一月終わり頃、バーテンさんから手紙の返事が着た。

 「佳代ちゃん、お手紙をありがとう。元気にしていますか?僕は、やっと就職活動も終わってね、今ゆっくりと手紙を書いています。図書館へは時々行っています。いつも佳代ちゃんが来ていないかなぁと思って公園の辺りを歩くけど、居なかった。」

 「僕は来年の春から大阪に本社がある建設会社に就職が決まったよ。今はアルバイトを頑張っている。佳代ちゃんと初めて会ったあの店、クラブのバーテンを一度、指のケガでやめたけどバーテンの人手が足らなくて困ったマスターが給与をアップするから来年の春まで来て欲しいと言われてね、また復帰しているよ。」

 「僕の家もそんなに裕福な家じゃないからね、奨学金を借りて大学卒業までアルバイトをして頑張ったんだ。佳代ちゃんも頑張り屋さんだけど僕も同じさ。会社勤めになったら毎月、借りている奨学金を返済し続けなくちゃいけないから、いったいいつまで返済があるのか気が遠くなるよ。」

 「そうそう、話が変わるけど今年のクリスマス、十二月の二十五日、夜七時に僕と一緒にクリスマスパーティーに行ってくれないかな?心斎橋の小さなお店を借り切って大学の友達グループでパーティーをやるんだけど。

 それまでに、一度会いたいね。佳代ちゃんのお休みの日はいつ?中之島の図書館の、あの公園で待ち合わせたらどう?一緒にご飯食べて映画でも観ようよ!?返事待っています。 石田理 」

  手紙を読みながら、胸がドキドキしていた。佳代が手紙を書いて三か月が過ぎる。もう無理かも知れないと、一度は諦めかけた恋だった。バーテンさんも毎日、頑張っているんだと思うと自分も早く一人前の化粧品アドバイザーにならないといけないと、力が湧いてきた。

 「バーテンさん、お手紙をありがとうございます。本当に嬉しかったです。私のお店の定休日は毎週水曜日です。月が変わって十二月、最初の水曜日か次の水曜日でどうでしょう?中之島の図書館のあの場所で私、二週続けて水曜日昼前に待っています。来れる日に来てください。もし、両方とも都合が悪ければまたお手紙を下さい。山下佳代。」

 書き終わるとすぐ、近所のポストまで走って行った。外は寒く羽織って出たコートの衿を立てた。佳代の嫌いな冬の季節がまたやってくる、今年の冬は佳代にとって初めてのクリスマスパーティー!それも、大好きなバーテンさんと一緒に。今度、映画も食事もできるんだと思うと気持ちが高ぶって寒いのに顔だけ熱っていた。


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大阪暮らし5 化粧品店

「夏美ちゃん、今日は佳代ちゃんと一緒に支店の方、任せてもええやろか?私なぁ、今日朝から人と会わなあかんねん。店の隣の薬局の店長に話てるから店、シャッター開ける時に声かけてや。頼みます。」

 朝食の後、秋ちゃんが夏美ちゃんに話しているのが聞こえてきた。佳代は台所で食器の後片付けをしている。今日は、心斎橋の店で二人っきりで夕方まで大丈夫だろうか?佳代はちょっと不安になった。

 最近やっと化粧品の名前や値段、どういう効果があるのかとか覚えたばかりだった。この松屋町の本店の方の化粧品の棚の中のブランドごとの位置を覚えて、支店の方の商品の位置がまだ覚えきれていない。

 資生堂がメインでカネボウ、マックス、コーセ、他にも数種類の化粧品のメーカーを置いていた。勉強会には、メインの化粧品会社だけ月に一度本社まで通っている。佳代は、初等科中等科と終わった所だった。

 「佳代ちゃん、聞こえてたやろ。今日は私と二人っきりやから、気引き締めて頑張ろな。大丈夫やよ、私がおるから心配いらん。」

 佳代の不安そうな顔を見て夏美が声をかけた。心斎橋店の店に着いたのは九時前、隣の薬局の店長に声をかけて店のシャッターを開けた。店の中に入り、化粧品の並ぶガラスのケースや棚を拭き掃除した後、商品の品出しを終わらせて店の外も掃除をしていると開店の十時になった。

 心斎橋商店街中ほどにある、四つ角に位置する薬局と一緒のフロアーがある化粧品の店舗だ。土日になるとたくさんの人で溢れて歩くのにも大変な場所であった。今日は平日なので客足もいつもよりも少ないと思う。だから秋ちゃんも二人に任せてでかけたのかと佳代は思っていた。

 昼前になると徐々に客が入ってきた。もうすぐ夏、化粧水や日焼け止め、ファンデーションも夏様にチェンジする人も多くその人に合った色を選ぶのも仕事。佳代は化粧品が好きなのだが、まだ新米なので自信をもって接客ができていないと自分では思う。不安だがそれを表面に出さないのがプロだと先生に教わっている。

 「佳代ちゃん、今のうちに裏に入ってお昼済ませといで。交代で食べよう。奥さんが作ってくれたおにぎりが棚の上にあるから。」

 夏美ちゃんが声をかけてくれた。客はさっき出て行った人が最後で、今は店には誰も居なかった。秋ちゃんと一緒の時には、夏美ちゃんと佳代と二人で休憩をとっていた。お昼ご飯は時々奥さんがおにぎりを作ってくれるのだが、ない時には近くで軽い軽食を買ってきていた。

 「いつもみたいに長く休憩とったらあかんよ、食べたらすぐに出てきてや。交代で私も早めに食べてくるわ午後から又、忙しくなるんやで。」

 「はい。ありがとう。分かりました。夏美ちゃん、お先に食べさせてもらいます。」

 佳代はそう言って奥に入った。午後から、夏美ちゃんの言った通り夕方まで客足が途切れなかった。

 「すみません。男性用の化粧水とヘアリキッドを下さい。」

 若い男性が夕方の客足が引いた店に一人で入ってきた。

 「あっ!バーテンさん!あっ、違った石田理さん。いらっしゃいませ。吃驚しました。化粧水とリキッドですね?今、使っているメーカーは分かりますか?」

 佳代は、驚いたが嬉しかった。又、バーテンさんに会えたと思うと自然と笑みが出た。先日の図書館の時一緒に喫茶店でオレンジジュースを飲んだ時を思い出した。

 「先日は、ジュースをご馳走様でした。」

 「あっ!君か?佳代ちゃんだったね、こちらこそ。話ができて楽しかったよ。誰だか分からなかったよ、今日はお化粧をしているんだね。それに、髪の毛の色が明るくなっている。別人だね。あっ、化粧水もリキッドも資生堂の安いやつ!あ、それそれ!」

 石田理は、男性化粧品が並ぶ棚の商品を指さした。そう言うと恥ずかしそうにポケットから財布を出し、夏美ちゃんが立っているレジで会計を済ませて笑顔で帰って行った。

 「佳代ちゃん、あの人誰なんよ!?佳代ちゃんも隅に置けへんなぁ。どこで知りおうたんやの?」

 夏美ちゃんには、何も話していなかった。事故の示談に出かける時に付き合ってとお願いしたが夏美ちゃんは、風邪で行けなくなったのでその後の話を一切していない。

 「ほらぁ~この前、夏美ちゃんが風邪をひいて寝込んでいた時に私一人で交通事故の示談にでかけた時の店にいたバーそテンさんです。あっ、でも本当の水商売の人ではなく、大学生のアルバイトだったそうです。今は指を怪我して辞めてしまったと、この間、図書館で会った時に言っていましたよ。」

 「え~図書館でも会うたの?喫茶店でジュースおごってもろうたん?秋ちゃんや奥さんには内緒やで、うるさいからな。そうそう、今日、秋ちゃん前回のお見合いが上手く行って結婚が具体的に決まったらしいでぇ。今日、その話ででかけたんちゃうかな?」

  「秋ちゃんの結婚が決まったら、この店は無くなるかも知れへんなぁ。佳代ちゃんも次の働き口を決めてた方がええと思うよ。急にそうなった時はお互い困るやろ。私は心当たりがあるから、ええねんけどね。アパートも引っ越さなあかんようになるやろうなぁ。」

 佳代は、夏美のいきなりの話でどうしていいのか分からなかった。そうかぁ、秋ちゃんが結婚したら、この店も閉めるのか。本店の方は客が少ないから従業員は要らないだろうと思ったら、アパートも住め無くなって佳代は行くところがない。閉店の時間まで客は無かった。

 「さぁ、レジの集計も終わったから、佳代ちゃん松屋町の店に戻ろう。多分今日は夕ご飯は、また出前かもよ!?」

 夏美ちゃんの言った通り夕ご飯は出前だった。

 「夏美ちゃん、佳代ちゃん、ちょっと話があるからこっちにきてくれへんか?これからの事やねんけどな。実は急やけど、秋ちゃんが結婚したら店を両方とも閉めようと思ってんねん。二人とも急がへんけど新しいアパートも仕事先も今年いっぱいで決めて欲しいんや!悪いなぁ急な話で。」

 台所で洗い物をしていた佳代と夏美が食卓テーブルの前で座ると同時に旦那さんが話始めていた。秋ちゃんと結婚する男性は大学病院のお医者様で、資産家なのに家族を最近亡くしたとかで、この松屋町の本店を閉めて、この家族と一緒にこの家を増築して生活する事になったとか。

 アパートに戻り、秋ちゃんは玉の輿になったと夏美ちゃんが一人騒いでいた。

 「今年いっぱいって、後半年の間に仕事先とアパートを探さないといけないのよねぇ。夏美ちゃんは、思い当たる働き口があるんでしょう?私はどうしようかなぁ。せっかく化粧品の事を勉強してこれから頑張ろうと思っていたのに。」

 佳代は、情けない顔をして夏美ちゃんに話していた。そうだ、また艶ちゃんに相談してみよう。艶ちゃんなら大阪の化粧品店の旦那さんを良く知っていると言っていた。せっかく化粧品に興味を持って勉強しているのだ今更別の仕事を探すのはもったいないと思った。

 佳代は、艶ちゃんに手紙を書いた。今のこの店の状況と、これから先の佳代の勤め先に心当たりありませんか?と相談してみたのだった。すると、2週間ほど経って艶ちゃんから返事がきた。相変わらず優しい書きだしで佳代の事を心配してくれて、お姉さんの様に気遣ってくれていた。

 それは、天王寺の商業ビルの中に入っている化粧品店で、店員が足らないので探しているという話だった。その事業主は大阪に5か所に店舗を持つ大きなお店で従業員もたくさん雇っているという話だった。

 それに、住むアパートも世話をしてくれるとの事で佳代は安堵した。とんとん拍子に話が決まり、今度の休みの日、艶ちゃんと一緒に社長に会いに行く事になった。

 艶ちゃんは、最近化粧品店を辞めて梅田の北の大きなクラブで本業として働き始めたと書いてあった。そのお店に以前勤めていた化粧品店の事業主さん、ご主人さんが艶ちゃん目当てに集まるらしい。艶ちゃんの美貌なら男性は喜んで通うだろうと佳代は思った。

***

 「佳代ちゃん綺麗になったね!お化粧、上手になって!今日は、佳代ちゃんに紹介するお店の旦那さんに会ってもらうからね、佳代ちゃんは何も心配いらないから。大丈夫だからね。」

 艶ちゃんと待ち合わせたのは、天王寺の駅近くの喫茶店だった。佳代に分かりやすい様に地図も書いて手紙の中に入れてあった。艶ちゃんは以前に増して抜けるような白い肌で綺麗で色っぽく女らしかった。佳代が新しく勤める事になるお店がこの近くだからと、後で見に行こうと艶ちゃんは言ってくれた。

 「やぁ。君だね。何歳?可愛いね。メーカーの勉強会はどこのクラスまで進んでいるのかな?美顔技術も勉強してる?」

 店に入ってきた男性は、艶ちゃんと笑顔を交し椅子に座るといきなり佳代の顔を見て喋り始めた。今のお店の旦那さんよりもずっと若い旦那さんだった。艶ちゃんは、社長さんと呼んでいた。

 佳代が返事をする間も待てないように、側にきたウエイトレスさんにコーヒーとサンドイッチを頼んだ。

「はい。山下佳代といいます。年齢は十九歳です、年が明けると二十歳になります。化粧品の勉強会は初等科と中等科、高等科はまだですが先に美顔技術も勉強しました。今は時々お客様に美顔器を使って肌のお手入れをやらせてもらっています。」

 緊張しながらも、はきはきと答えられてホッとした佳代だった。今日は、丁寧に化粧もしている。アイシャドーもアイライナーも眉毛も整えてアイブローペンシルで整えた。最近は流行りの付けまつ毛も、短くカットして目立たない様に付けていた。髪の毛も新製品のヘアカラーで明るい目の色を染めているのだ。

 佳代の最近の顔は、すっぴんの時と違い、大人っぽい女性に見えた。大きな瞳とツンと細い鼻先、整った顔が一段と若い女性らしく明るく華やかに綺麗だった。そんな佳代を一目見て気に入ったのだろう、社長が艶ちゃんに言った。

 「艶ちゃん、決めたよ。山下さんは、うちに来てもらおう。アパートもお世話するよ。いいね、佳代ちゃん!九月から来てもらえるかな?ここの阿倍野のお店の近くにアパートが有ってね、店に勤める他の娘たちも住んでいるので一応、寮的な感じだけど一人ずつ一部屋あるから心配いらないよ。」

 「もちろん自炊もできるから。お風呂は近くの銭湯へ行ってもらう。すぐ近くに銭湯もあるから。なに、大丈夫さすぐに慣れる、いい娘ばかりだから心配いらないよ。」

 若い社長は、優しかった。本当に支店がいっぱいあるお店の社長なのかと佳代は感心したし、艶ちゃんにも感謝の気持ちしかなかった。

 「艶ちゃん、今日はいろいろとありがとうございました。いつも艶ちゃんに甘えてばかりで感謝しています。私、一生懸命働いて艶ちゃんの名前を汚さない様に頑張ります。あ、それから、以前、艶ちゃんの彼氏さんに私の傘を届けてもらってありがとうございました。お礼、遅くなってごめんなさい。」

 社長が喫茶店を出た後、二人残って社長が注文してくれたサンドイッチを食べながら佳代は、艶ちゃんにお礼を言った。

 「あぁ~あの彼ね。もう別れたの。彼は大学生だったでしょう、優しかったけどまだ子供っぽくって。彼とは、店で知り合ったけどお金持ちの息子は大変よね、家でも期待されていて。」

 艶ちゃんは、言葉の途中で声が小さくなった。一点を見つめながら何か考えているようだった。艶ちゃんにも辛い事があったのだろうと佳代は深く聞かないで曖昧に、あいずちをうつだけだった。

***

 その夜、松屋町のアパートに戻り夏美ちゃんに今日一日あった事を報告した。新しい勤め先や今度住むアパートの事、若い社長の事も話した。

 「そっかぁ。佳代ちゃんも決まったんやねぇ。実は、私も新しく勤める店が決まったんよ。化粧品店じゃないんよ。実は、いつも遊びに出かけていた店で雇ってもらえるようになってん。」

 「心斎橋から宗右衛門町に入る通りのクラブ!大きな店じゃないけどなぁ雰囲気がいいんよ。佳代ちゃんも落ち着いたら一度、店に遊びにきてな。夜、出歩かん佳代ちゃんやけど、一度くらいは、私に会いに来てや!」

 夏美ちゃんは、佳代に明るい声で何か吹っ切れたように報告してくれた。二人とも、先の事を考えて少し寂しい気がしていた。

 「佳代ちゃん、銭湯へ行こう。今日は、帰り、お好み焼きをおごってあげる!お風呂屋さんの横の路地を入ったらな、美味しいお好み焼き屋さんがあってな。前に一度食べた事があるんよ。めっちゃ美味しかったから期待してもええよ!」

 松屋町の店での生活も後一カ月となった。最近は、本店ではなく、佳代は心斎橋の店を手伝って三人で最後まで頑張ろうと話している。

 「いらっしゃいませ。化粧水ですか?今の季節はこちらの商品がお勧めですよ。さっぱりタイプの化粧水ですけどね、付けた後さっぱりしているのに、肌に残るしっとり感が今、一番良く売れている商品なんです。お値段もお手頃ですしね。」

 秋ちゃんがお客様の手の甲に、コットンに浸した化粧水をパタパタと付けていた。この勧めている商品は、今の時期のメーカーのお勧め商品で販売員一人何個売るのかを競うコンテスト商品だった。

 店内に入っている、お客様を夏美ちゃんと佳代も接客対応していた。時々、こんなコンテストがメーカー主催であった。佳代は、以前ハンドクリームの販売コンテストで優秀賞をもらった事がある。

 「すみません。ヘアリキッドを下さい。」

 佳代がお客様のレジを済ませてカウンターに戻ったと同時に見覚えのある男性。それは、石田理さんあの、バーテンさんだった。佳代は、嬉しかった。

 「はい。いつもありがとうございます。コレですね?」

 佳代は、レジを済ませて石田理さんに商品を渡して、小声で言った。

 「私、もうすぐこの店を辞めます。秋から、天王寺のビルの中にあるお店で働きます。今度お手紙書いてもいいですか?もし、良かったらこのメモにバーテンさんの住所を書いてもらえませんか?迷惑だったら、無理しなくて大丈夫ですから。」

 佳代は、秋ちゃんと夏美ちゃんがまだ他のお客様の接客をしているのを横目で見ながら石田理さんに話した。理さんは佳代の目を見ながら微笑んで自分の住所を書いてくれた。佳代のアパートからそんなに遠くない場所の住所だった。

***

 天王寺に引っ越す三日ほど前に佳代は石田理さんに手紙を書いた。

 「こんにちは。先日は、突然住所を書いてくださいとお願いしてごめんなさい。びっくりしたでしょう。天王寺に引っ越したらもうバーテンさんに会えなくなると思ったら、私、咄嗟にあんな事言ってしまって恥ずかしいです。」

 「最近は、図書館にも行けていません。新しく引っ越す天王寺のお店に慣れてきたらまた、休みの日に図書館に行こうと思っています。それまで頑張って環境に慣れて、仕事を覚えないといけません。天王寺の化粧品店は今の店と規模が違って人数も多くて不安です。でも、私、頑張ります。」 

 「早く一人前になって大人の女性にならなくちゃね。石田さんも来年は大学を卒業して就職ですね?体に気を付けて頑張ってください。また、手紙を書きます。山下佳代。」

 佳代は、手紙を書いた後心配になった。ちょっと馴れ馴れしいかな?でも、数回バーテンさんは、店にきてくれたし、図書館ではジュースもおごってくれた。あれはデート?そう思いながら佳代は、胸のあたりがドキドキしてキュっとした。


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大阪暮らし4 大好きなバーテンさん

 「佳代ちゃん、今日は悪いけど店の手伝いはええから、秋ちゃんに付いて行って心斎橋の支店の方を手伝うてやってくれへんか? 心斎橋の店が今日は、売り出しやから夏美ちゃんだけやったら手が足らんかもしれへんからなぁ。」

 座敷の食卓で家族だけ食事中の奥さんが箸を置いて台所の方へ話しかけてきた。

 さっき朝食の手伝いを終わらせて、台所で夏美ちゃんと私の分の朝食を用意していた時、引き戸越しに話しかけられた。

 「はい。分かりました。早く片付けて秋ちゃんと夏美ちゃんと一緒にでかけます。」

 私と夏美ちゃんは急いで朝食を済ませた。佳代は、たまに心斎橋店で手伝っている。化粧品の勉強にもなるし、賑やかな通りはいろんな人が店に入ってきて楽しい。

 出かける準備ができたところ、出がけに、先日の男性から電話があった。交通事故を示談にしたいので一度会って欲しいとの事だった。佳代は、交通事故というほど大袈裟な事ではない。

 軽い捻挫だったし、すぐに治っていたので忘れていたが大切なお気に入りの靴を弁償してくれると言ったので佳代は、会う事にした。

 奥さんには足のケガの事は、言っていなかったので電話の後、説明が大変だったが店に出かける前で急いでいたので、もう済んだ話だとごまかした。

 数日後、会う場所は、心斎橋のお店らしい。

 その男性が指定していた場所が心斎橋の繁華街で地理的には大丈夫の佳代だったが、気になるのが指定の時間だった。夜の繁華街には出かけた事がないので夏美ちゃんに付き合ってもらえるように誘っていたのに、当日夏美ちゃんが風邪で行けなくなった。一人心細いが出かけるしかない。

 お店は繁華街から少し入った通りのクラブだった。佳代はまだ未成年、十九歳になったばかりの女の子。ドアを開けるのに勇気がいったし、怖かったが思い切って重いドアを押して中に入った。

 「あの~。すみません。今夜、九時に店に来て欲しいと北田さんに言われて来た、山下佳代といいます。北田さんはいらっしゃいますか?」

 佳代は、勇気を出して薄暗い店のカウンターの奥に立っていた男性に声をかけた。

 「あぁ。君が交通事故の相手だったのか?まだ未成年のように思うが君は何歳?こんな大人の店に入るには勇気がいっただろう?待ってて、すぐに呼んでくるから。」

 背の高いスラっとして優しそうな顔をしている男性が奥に入って行った。多分、バーテンさんだろう。カウンターには人影が二名。お客が入っていたが入口より遠い席だったので顔も分からなかった。

 「あっ、君か?今日はわざわざ来てもらってありがとう。ちょっと奥の部屋に来てくれないか?」

 北田は、そう言って佳代を奥の部屋に案内した。

 「ここに、示談書がある。正式ではない用紙だが、俺が書いておいたものだ。君の名前とハンコを押して欲しい。」

 そう言って北田は、机の上に用紙を置いた。白紙の用紙に、簡単に書いていた。示談書と書いている。後は、佳代の名前とハンコの場所だけを鉛筆で丸く囲んでいた。読んでみると、保険は使わず、北田、本人の自費で治療代を払った事実を書いている。

 お見舞い金として、五千円の金額と、後々、不服を言わない事。と、書いてあった。多分警察には報告していないのだろうと思った。

 佳代の給料が住み込みで部屋代と食事代がタダで月、三千円だったので五千円は、佳代にとって嬉しかった。高卒の給与が七千円、大学卒の給与が一万円だったのだ。

 「すみません。私、名前は書きますが、ハンコは持っていません。」

 名前を書いた後、佳代が言うと北田がハンコの代わりに親指の印でも良いと言って朱肉を差し出した。佳代が親指を押してその書類を北田に渡すと、封筒に入っている五千円をくれた。

 佳代は、久しぶりに頭の中がザワザワしてドキドキしてきた。邪悪な空気で息苦しくなって急いで早くこの部屋から出て行きたかった。

 「ありがとうございました。私の足はもう治っているので気にしないで下さい。後、一回、病院へ行けばそれで終わりだと先生が言っていましたから。」

 佳代が言うと、北田が急にニヤニヤしながら側に近づいてきて、佳代の肩を抱いていきなりキスをした。佳代はあまりの急な出来事でかわす暇もなく怖くて、体が固まって動けなかった。夜のお店のカウンターの奥の事務所は薄暗く狭い、どっちの方へ逃げたらいいのかも佳代は分からなかった。

 「山下佳代さんだったね、今から俺の彼女にならないか?」

 大人しそうに見えた北田は豹変したのだ。佳代は怖くて慌てて、その場から逃げた。事務所から出た場所が客の居るカウンターの奥の出口で、まだ客が座って飲んでいた。事務所に入ったのは店の入り口付近だったと思う。早く外に出たくて店の入り口まで速足で歩いて、店を出た。

 佳代は怖くて気持ち悪くて、勢いよく走って松屋町まで帰った。アパートに戻ると、夏美ちゃんは眠っていたので声をかけず、一人で銭湯へ行った。何度も口のあたりを石鹸で洗ったが、佳代の口にあの男の口が、考えるだけでムカムカしてくる。北田の口がこんにゃくの様な感触が数日間消えなかった。

***

 佳代がかかっている近所の外科へ最後に診てもらおうと出かけて行った。

後一度だけ診せたら終わりだからと、前回、先生が言っていたので佳代は最後の診察を早めに終わらせて今回の事故の事を全て忘れたかった。

 病院で受付を終わらせて待合室で椅子に座って待っていると、診察室から出てきた男性に見覚えがあった。あの日のカウンターの中に入っていた優しそうな長身のバーテンさんだったのだ。

 「あっ。君は? あの時の女の子だね?怪我はもういいの?あの日、真っ青な顔で出てきたから…。泣きそうな顔が気になっていたんだよ。大丈夫だった?」

 よく見るとあの時の、若い男性は端正な顔をしていて優しそうな目が佳代に安心感を与えた。そして、爽やかに笑顔で話してくれたので北田の事は思い出さないように努めた。

 「はい。ありがとうございます。もう、治っているって先生も言ってくれたので今回で終わりです。」

 佳代は明るく元気な声で、笑顔で返した。

 「それは良かったね。実は、僕は心配していたんだよ。君が事務所に入って行った時から。あの、北田は女癖が悪くてね。もうないと思うけど、夜の店には近づいたらいけないよ。」

 その若い男性は、左の指に包帯を巻いていた。佳代が男の指に気が付いて見ていると。

 「あぁ~これね。包丁で切ってしまった、大したことはないけど、傷口が深かったので一応病院へきたんだ。僕はあの店では、ただの大学生のアルバイトだよ。バーテンは給料が高いからね。」

 「それでも、この怪我じゃお酒は作れないしね、この辺が潮時かなぁ。では、またね。どこかで会うかも知れないね。僕も、この辺の近所のアパートに住んでいるから。」

 そう言って、その人は帰って行った。この人と、もう一度どこかで会えたらいいなぁと思った。今まで佳代は、男の人と話す機会がなかったので、ドキドキしながら話していた。優しい目をした爽やかなバーテンさんは、佳代の胸を時めかせた。

***

 数日が経過し、お休みの日の朝から佳代は、一人で地下鉄に乗って大阪北堀江の中の島図書館に来ていた。本を買うのがもったいないので、休みの日に三階にある図書館を時々利用している。歴史的建造物なので見学だけでも楽しめ周りの公園で一日時間をつぶすときもあった。

 暑くもなく寒くもないちょうど良い気候で 、今の季節が一番好きだ。公園にはバラの花が満開だった。今回は、五冊借りた。二週間ほど猶予があるので期間内に読める数だけ借りている。

 佳代は、本を持ってバラが見渡せる公園のベンチに座り借りてきた本の一冊を読み始めた。二時間ほど読んでいると佳代のお腹が鳴った。朝に菓子パン一個だけの朝食なので若い食べ盛りの佳代には足らなくていつも空腹だった。

「あのぉ~。写真を撮らせてもらって良いでしょうか? けして怪しい物ではありません。公園の薔薇の写真を撮っているのですが、薔薇と女の子の写真が撮りたいのです。もし、嫌だったら顔はフォーカスして分からなくして撮りますが?大丈夫でしょうか?」

 キャップを目深にかぶった若い男性に声をかけられた。

 キャップの下から穏やかな目をした男性は、丁寧な話し方で佳代の顔を覗き込んだ。目が合って、佳代は一瞬、男性の左ほほの赤いアザに視線が向くと男性は困ったような顔をした。

 「あっ!良いですよ。私の顔がはっきり写っても、どうぞ自由に撮ってください。私は平気ですから。」

 佳代は、男性のアザが赤くてきれいだと思った。初めて見るアザではなかったからかも知れない。田舎で幼馴染の奈美ちゃんが、同じような赤いアザが鼻の横にあったのを思い出していた。

 奈美ちゃんは、いつもアザの事を気にしていてお母さんのお化粧を塗って学校にきているのを思いだした。お化粧の威力はすごいと思った。

 読み疲れてベンチから一度立って両手を広げて佳代は、大きく深呼吸した。

すると、ずぅ~と、向こうの方から若い男性三人が歩いてきてこっちを見ている。

 「あれぇ~!君。また会ったね。こんな所で読書なの?一人?」

 佳代がもう一度会いたいと願っていたバーテンさんだった。他の2人は同年代の友達のようだったが、佳代が知り合いだと思ったのか、二人の友達は先に歩いて図書館の方へ歩いて行った。

 「あっ!はい!偶然ですね。今日は店がお休みなので本を借りにきて、ここで読んでいました。」

 佳代は焦っていた。今日の服装が普段着で、ちっともおしゃれをしていない。お化粧もせず、ほとんどすっぴんだったので真直ぐ顔を見られるのが恥ずかしかった。

 「お休み?そうだったのか、君のお店は何のお店?あの病院の近くなんでしょ?」

 「はい。化粧品店で住み込みで働いています。と、言っても今は近くのアパートに引っ越しましたけど。」

 「そうかぁ。じゃ、今日は暇なんだ?良かったら僕と図書館の中の喫茶店でコーヒーでも飲もうか?ジュースでもいいよ、おごるから。あの二人の事は気にしなくて大丈夫だから。」

 佳代はお腹が空いている事は恥ずかしくて言えなかったので、ぐ~っと鳴らない事を願った。

 三度の食事は住み込みで働くお店で食べていたが、アパートに引っ越してからは、休みの日には自分で食べる。自炊をしていないのでいつも菓子パンだったのだ。早く一人で住める部屋が欲しい、自炊もできるアパートに引っ越したいといつも思っていた。

 バーテンさんは佳代の大きなショルダーバッグを持ってくれて、歩きだしていた。本が数冊入っていて佳代には重かったがバーテンさんが軽々と持ってくれた。

 佳代は、すっぴんでも可愛かった。

 くりくりとした大きな瞳でスッとした鼻先が目とのアンバランスで知的でもあり愛らしくもあったのだ。佳代は、今回で三回目に偶然会ったバーテンさんだから、迷わず緊張しながらも後を付いて行った。

 「僕の名前は、石田理です。大学四年生で来年卒業して就職するんだ。君の名前は?」

 「私は、山下佳代です。十九歳になりました。田舎が鳥取なので大阪弁が苦手です。松屋町の化粧品店で働いていますが、時々イベントの時には、心斎橋のお店にも手伝いに行きます。」

 「この間の、足のケガ。あの交通事故は、お店の友達と心斎橋に買い物に行く途中であの方の車に、でも、もう今は、まったく大丈夫なんですけどね。」

 そう言って佳代は、ケガをしていた右足をくるくると動かして微笑んだ。

 バーテンさんと向かい合わせて座るとなんだか二人の顔が真正面で恥ずかしかったが綺麗な顔をしているバーテンさんが素敵だなと思った。

 ずいぶん前に艶ちゃんの彼氏さんと友達の大学生は、佳代の事を馬鹿にしたような喋り方で佳代の気分を悪くさせた。あれ以来、佳代は、大学生が苦手になった。今は優しい目で話しかけてくれるバーテンさんが好きだった。

 「あの、バーテンさん!あっ、間違った。石田さん、お友達は放っておいて大丈夫ですか?」

 「あぁ、いいんだ。三階の図書館に用事があって其々に、卒論提出の為に調べたい事があったから待ち合わせて来ただけなんだ。気にしないで、どうぞ、オレンジジュース飲んでよ。図書館には良く来るの?」

 「はい。いつも一人できます。本が好きで、買うとお金がかかるから図書館はありがたいです。私の家、貧乏だったから集団就職で大阪にきました。自分の分からない事や難しい字も辞書で調べて納得するんです。一番楽しいのが読書です。」

 佳代は、大阪に来て初めて口に出した事だった。自分の学歴の低さが自分自身を卑下して自信がなくなった。そんな経緯が艶ちゃんの彼氏さんの大学生の言葉だったのだ。それからは、自分を向上させるため分からない事は何でも調べて勉強しようと思った。

 自分の事を偽らず飾らず本当の事を言った時、このバーテンさんはどんな事を言うのかと思った。少し怖かったけど、それで態度が変わったら仕方がない事だと佳代は思った。

 「そっかぁ。一人で大変だね。勉強することはとてもいい事だから頑張ってね。図書館でも分からない事があったら僕が教えてあげるよ。お休みの日は何曜日?図書館に来ている時に又、会えるかな?会えるといいね。」

 そう言って石田理は、立ち上がり伝票を取って会計の所へ行った。佳代は、バーテンさんの言葉を聞いて、石田理がもっと好きになった。

 何故って?佳代の頭の中が、全くザワザワしなかったから!心も顔もきれいなバーテンさんを好きになってドキドキし、憧れにも似た感情が湧いてきて嬉しかった。

 

 


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僕の失恋7 短編

年も明けて、もう三月が終わろうとしている。

最近、やっと新しい職場での仕事にも慣れてきた。

 変わった事と言えば、毎日車移動で支店を回ったり商品を買い付けの下見に出かけたりと車生活が多くなってきたこと。そして、愛知県の名古屋市辺りの詳しく載っている地図も買った。携帯の画面では分かりずらい時もあって大判の地図が便利だ。

 もう一つ変わった事は、数回に一度は先輩も一緒に車に同乗する事だった。

 僕は先輩に気を使って疲れる時もあるが、先輩に教えてもらう事も大切な仕事だと思っている。僕の知識の引き出しが増えていくので僕にとって仕事のスキルがアップしてくると日に日に感じる、嬉しい事だ。

 今朝は、昨夜仕事帰りにコンビニで買ってきた菓子パンと牛乳で簡単な朝食をすませて、さて出勤しようと後片付けを始めたところで携帯が鳴った。

 仕事の電話だと思い、取ったら、美子からの電話だった。いつもはメール交換で電話は、しないようにお互い暗黙の決まり事だった。僕は何か胸騒ぎがしていた。

 「正人、突然でごめん。昨日の夜に、父が。父が、母の病院に向かう途中で対向車のトラックと正面衝突して、救急車で病院に運ばれたけど、すでに息絶えていたって 。父は車に挟まれて即死状態だったって警察から電話があったの!」

 美子は、病院から電話をかけているのだと言った。その声は泣き疲れたのだろう、消え入りそうな掠れた声だった。

 「美子!大丈夫か?なんて言って良いのか分からないけど…。美子が心配だよ。」

 僕は、あまりの衝撃で言葉が出てこなかった。

 「母の手術が上手く行って、やっと退院の話が先日あったばかりなのに…。どうして父が…。旅館で働いている人たちが病院に来てくれていたけど、さっき帰ってもらったの。この先、どうなるのか見当もつかないわ。」

 「あっ、ごめんなさいね、正人は朝から忙しいのに又、連絡します。」

 僕は、気持ちが動揺していたが出勤の時間が少し過ぎていたので慌てて駐車場へ急いだ。その日の仕事は、一日中美子の事が気になってしまって、深呼吸を何度もして気持ちを切り替えるのが大変だった。

その日の夜、僕は大阪に住む母に電話をした。

「あっ。母さん、大変な事になったんだ。今日、和歌山の美子から電話があって社長が交通事故で昨日亡くなったんだ。奥さんも昨年から心臓が悪くて入院していたんだが、社長は、病院に行く途中で事故にあったらしい。」

 僕は母に電話をするのを躊躇したが、知らせない訳にはいかないだろうと判断しての事だった。僕も母も社長にはお世話になったんだ。母だけでも…。いや、僕も会社に頼んで一日だけ休みをもらってお葬式にでないと。

 次の日の朝、僕は和歌山に出向いて行った。母は、大阪から一人で行くからと連絡があったのだ。

 美子の実家の旅館には、従業員が20名ほどいる。全員が協力してお葬式にあたっていた。これから先、美子は旅館はどうするのか?ゆっくり話ができる暇はなかった。お母さんはまだ病院に入院していて居なかった。

 「あっ!美子ちゃん。この度はご愁傷様でした。大変だろうけどね、気を落とさずにお母さんを大切に労わってあげてねぇ。」

 僕の母がお悔やみに来ている人たちに混じって挨拶しているのが見えた。美子は忙しそうに立ち動いていたので話しかけるタイミングが見つからず結局お葬式が終わるまで話せなかったのだ。

 「あっ。正人さん、この度はわざわざ来てくれてありがとうございました。お母さんにも来ていただいて遠い所すみません。」

 僕と母とが並んで座敷の隅で残っていたのを美子が気が付いて側にきて深く頭を下げた。僕は、美子から聞いた社長の言葉をまだ家の母には話していなかった。美子は、その後、母親から僕たちが血が繋がっていない他人だと聞かされていたので安心しているのだろう。

 しかし、社長がいない今は、僕の母だけが知っている秘密なのだ。母が、美子の母に作り話を吹き込んでいたのなら社長の言葉が本当だろう。

 機会を見て、母に確かめなければいけない。逃げられない現実だった。 美子とゆっくり話ができないまま帰らなければいけないのは辛いがすぐに帰る時間は来た。

 「美子、僕と母さんと一緒に大阪まで帰って、そこから僕は名古屋に戻る。又、夜にでも電話をしてくれないか?どんなに遅くなっても待っているから。話したい事があるんだ。」

 僕は、帰りの大阪までの間に母に社長の言葉を話してみようと思っていた。このタイミングで話さないと、メールや電話では母の顔を見て話せない。母の、様子や微妙な顔の変化も見逃してはいけないと思っていた。

 「母さん、ちょっと話があるんだ。隠さないで正直に僕に話して欲しい。」

 僕は、和歌山から大阪の天王寺までの特急電車の中で話し始めた。今しかないと考えたのだ。母は、僕の向かい側の座席に座っていた。平日なので電車は混んでいないのでゆったりと座れた。

 「突然だけど、僕は、美子の事が好きなんだ。他の人と付き合った事もあるがどうしても美子じゃないと結婚は考えられないと思っている。」

 話すのに勇気がいったが話始めるとスムーズに言葉が出てきた。母は、じっと黙って聞いている。

 「美子も大学一年生の夏に、東京から和歌山の実家に帰省した時に、社長に僕が好きだから将来結婚したいと話したそうだよ。すると、社長は物凄い剣幕で怒ったそうだ。そして、社長に言われた言葉が衝撃的で美子と大喧嘩になって以来、美子は和歌山に戻っていなかったと言っていた。」

 「母さんは、社長が何を言ったのか分かるかな?社長は、昔、母さんと付き合っていたが別れて美子のお母さんと結婚したと言ったんだ。衝撃的なのはこの後だったよ。」

 「僕と美子は腹違いの兄妹だから結婚は絶対に許さないと言ったんだ!」

「母さんはどう思う?この話は本当かなぁ? 僕は母さんを責めているんじゃないんだ、僕にとってそんなことはどうでも良い事だ。ただ、僕と美子が結婚できるかどうかを聞きたいだけなんだよ。」

 「昨年の秋に美子のお母さんが心筋梗塞で倒れて、美子は、和歌山の実家に戻ってずっと今まで付き添っているんだ。そんなところに社長の事故が起こってしまった。僕は美子にどう慰めて良いのか分からない。」

 「美子のお母さんも、母さんと同じ事を言っていたらしい。正人さんのお父さんは外国船の船乗りだった人だから、美子は正人くんと結婚できるんだよ!と、言われたらしい。 どっちが本当なのか僕には分からない。」

「どちらかが勘違いをしているのかも知れない。真実は母にしか聞くことができないんだよ。辛いなら、詳しく話さなくても良いから、僕が美子と結婚できるかどうかだけ言ってくれたらそれで良い。それだけで良いんだ!」

 母は、俯いてずっと黙ったままだった。もうすぐ大阪天王寺に電車が到着する、結局母は、何も話してくれないのか。

 「母さんには、辛い事がいっぱいあった和歌山の時代だったんだね。思い出させて悪かったよ。僕は、母さんの言葉を信じて美子と結婚するよ。良いよね。賛成してくれるよね?」

 もうすぐ、天王寺に到着します。と、特急電車のアナウンスが流れだした。その時。

 「正人、だめだよ! 美子ちゃんと結婚しちゃだめ!昔、作り話でも、ああ言うしか母さんは生きていく術がなかったんだよ。それに美子ちゃんのお母さんに本当の事が知れたら傷つけるだけじゃなく、赤ちゃんだった正人を抱えて母さんが生きていく場所がなかった。旅館で働かせてもらうには、船乗りの父親の話が必要だったんだよ。」

 母は、目に涙をいっぱいためていた。僕は想像していた以上に母にとって辛い話を聞いたのだ。若いこれからの人生がある僕の事よりも母が可哀そうになった。赤ん坊の僕を抱えて生きていく厳しい現実を思いやると僕は母を責める事ができないと思う。

  「そうだったのか、大丈夫だよ。母さんが悪いんじゃない、社長が一番悪い。そして、社長の両親が悪い。母さんの人生を狂わせたんだ。母さんのせいじゃないんだよ。僕は大丈夫だから。美子の事は、きっぱりと諦めるよ。母さんに心配はかけないから安心してよ。僕は、母さんに感謝しても仕切れないほどの苦労をかけたと思っているんだからね。」

 「もう、その事は、気にしないでね、忘れてよ! 美子にも話すよ、もちろん美子のお母さんには絶対に秘密にしてもらう。心臓の悪いお母さんに聞かせたら大変な事になるからね。ホント、母さんは心配いらないから大阪の帝塚山のお父さんと仲良く暮らしてね。僕は仕事を頑張るよ。大丈夫だから。」

 話が終わる頃に、特急電車が天王寺のホームに到着した。母は、ハンカチで涙を何度も拭いていた。僕は、天王寺で母さんと別れて新大阪から新幹線で名古屋に向かった。

 帰りの新幹線の中で僕は、シートに体をあずけ物思いにふけっていた。

 やっぱり美子と兄妹だったのだ。美子の事を考えると心の奥底から湧き上がる何かが、ざわざわしてきた。

 あの時、美子のお母さんが倒れていなかったらいずれは、僕と美子は一緒に暮らしていただろう。そうなれば僕たち二人は取り返しのつかない事になっていた。

 そう思う反面、もう一人の僕が世間やモラルを無視しても誰も知らない事だ、美子と結婚しても子供さえ作らなければいいんじゃないのか。と悪魔の様に囁く僕もいた。

  僕は眠気でうとうとしていた。美子と二人、靄のかかった林の中で道に迷いながら彷徨い歩いて疲れ果てた時、いつの間にか熱い体を合わせて微睡んでいた。

  目的の名古屋に着く直前、新幹線の柔らかい音楽と共にアナウンスが名古屋到着を知らせていた。僕は我に返り、はっきりと目が覚め現実に戻った。


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大阪暮らし3 交通事故

 佳代は、賑やかな都会での暮らしも、だいぶ慣れてきた。

 今朝も変わらず、朝食を済ませて皆の食べた食器やテーブルの後片付けをしていると、二階から階段を慌てて降りてくる奥さんが、何か大声で叫んでいる。

「大変やわぁ!!アキラがおらん!!あのこ、家出したんや!!」

 奥さんが手に持っているのは、アキラくんからの置手紙のメモらしい。長男のアキラくんは、佳代よりも一つ年下の高校三年生。いつも二階の自分の部屋で本を読んでいる大人しい性格の男の子だった。

 佳代がいつも二階の部屋の掃除をしていたのでアキラくんは気を使ってくれた。部屋を掃除しやすい様に片付けてくれたり、たまに面白かった本を貸してくれるのだった。

 それも、照れながら言葉少なく単行本を手渡してくれる様子がシャイで可愛いと思った。しかし、両親には何故か反抗的でそっけなかった。

 夏美ちゃんが、そんなアキラくんをよくからかっていたのだ。

 私は驚いた。まさか家出なんてするような勇気がある子だったのか。奥さんは大騒ぎしている。アキラくんの自転車も無いらしい。置手紙には、自転車で九州一周してくる。心配しないで下さいとだけ書いてあったと、奥さんは涙目になって騒いでいた。

 支店の秋ちゃんにも、奥さんは興奮して電話をしていた。今日は旦那さんが留守の日と分かってのアキラくんの計画的犯行だ。組合の寄り合いで一泊で温泉旅行に出かけて留守の日だったのだ。

 秋ちゃんは以前、商社マンとお見合いをしたが上手く行かなかったようだ。秋ちゃんの方が気に入らなかったらしい。それも夏美ちゃんからの情報だった。その後、何度かお見合いをしたが断ったり断られたりで上手く行っていなかった。

 その日の晩御飯は、近所の食堂から丼物を取って済ませた。

 次の日の夜に、旦那さんが帰ってきたが、報告する奥さんの興奮した声も聞いているのかいないのか、と思うほどに聞き流して驚いた様子が無かったのは、何故だろう放任主義なのかなと佳代は思った。

 一カ月が過ぎた頃、真っ黒に日焼けしたアキラくんが帰ってきた。ずいぶんと顔が男らしく逞しく輝いて見えた。佳代はアキラくんが眩しかった。

 そして、ある日の朝、旦那さんが夏美ちゃんと私を食卓に座らせて話があるといつもに無い厳しい顔になったのだった。

 「夏美ちゃん。佳代ちゃん。よう聞いてや。今までこの店の二階で二人とも仲よう暮らしていたけどな。これからは二人で近所のアパートに引っ越して店に通って欲しいんや! もう、相手さんとは契約しているよってに荷物を運んだらええだけになっとるから。」

 「二階には、アキラの部屋もあるし、あんたらが出た後の部屋にはまーくんの部屋にしようと思っとるんや。まーくんも下のわたしらの和室では、もう窮屈や言うしなぁ。明日からそっちに引っ越すようにしとるから、よろしゅうに頼むわな。」

 旦那さんの顔がやっと緩くなった。

 その夜、銭湯の帰りに夏美ちゃんが言うことに佳代は驚いた。

 「あんなぁ。佳代ちゃん。絶対に誰にも言うたらあかんでぇ。アキラくんが佳代ちゃんの事を好きになったんやないかって、旦那さんも奥さんも思うてはる。同じ屋根の下に、子供たちを若い娘と暮らさせたら、ろくなことが無い言うてはったわ。昨日の晩にトイレに行くときに廊下で聞いてん!」

 夏美は、神妙な顔つきで佳代に話してくれた。

 「まぁ、気にしなや。私は、アパートで自由に暮らせるようになって嬉しいんよ。佳代ちゃんも奥さんに夜、雑用を頼まれんでええやんか。そやけどなぁ、トイレは嫌やなぁ。共同トイレは気持ち悪いやろ。でも、まぁ贅沢は言うてられへんからなぁ。」

 次の日の朝から、二人は引っ越しの荷物を小分けにしてお店の斜め向かいのアパートに運んだ。二人とも今まで使っていた重い布団は持って行かなかった。途中、夏美ちゃんと二人で近くの家具屋さんで小さな安い箪笥を買って店の人に運んでもらった。

 布団も近くのお店で新しい軽い布団を買って揃えた。この辺りは賑やかな心斎橋の通りとは違って問屋がいっぱい並んで安く何でも揃えられるのだった。食事は今まで通りお店で食べる事になった。佳代のお手伝いさん業も今までのまま。それでも夜は自由だった。

 夏美ちゃんはいつものように、呆気らかんとした顔で話している。二人の部屋は六畳一間で二人の小さな箪笥を置くと、二つ布団を敷くのがやっとの広さだった。アパートの玄関を入り二階への階段を上ると、廊下から引き戸を開けたらすぐの所に、二畳ほどのキッチンがあるが自炊はしていない。

同じような部屋が隣から三つほど並んであった。狭いアパートだと思う。

 引っ越して以来、夏美ちゃんは夜になると一人出かけていた。たまに佳代も誘われるのだが夏美ちゃんの行く店はあまり好きじゃなかったので一人で夜アパートにいる事が多くなったが、一人も楽しかった。

 中之島の図書館で借りた本を読んだり、ラジオを聞いたり、夜は長くて自由があった。時々、お腹が空くと近所のお好み焼き屋さんで、一人で店に入って食べるのが一番の楽しみだった。最初はお店に入るのも勇気がいったが今は慣れてきてお好み焼きを焼いてくれる、おじちゃんとおばちゃんが面白くて楽しかった。

 相変わらず、夏美ちゃんはお店で朝食を食べた後、秋ちゃんと支店にでかけて夕方まで働き、松屋町に戻り、夕飯を食べて先にアパートにもどり一人出かけて行くのが日課になっていた。

 「佳代ちゃん、明日の佳代ちゃんのお休みに、私も一緒にお休みもろうたから、朝から一緒に買い物に心斎橋の方まで出かけへん?」

「あんなぁ、実は秋ちゃん、お見合いやねん。奥さんも旦那さんも一緒にでかけるから支店の方もお休みにしたんやて!ラッキィやったわぁ。」

 夏美ちゃんの頗る、ご機嫌な様子が佳代は可笑しかった。

 最近のお休みの日は、朝食を自分たちで食べる事になっていたので、いつも前の日にどちらかが二人分の菓子パンを買っていた。お店に行く事もなく自由に過ごせた。

 朝、ゆっくりと二人は起きて顔を洗い菓子パンを食べた。夏美ちゃんは丁寧に付けまつ毛を付けてファンデーションもいつもよりも丁寧に塗っていた。最近、時々夏美ちゃんはお化粧をしながら煙草を吸っている。佳代はちょっと煙いと思っていたが、あえて何も言わなかった。

 アパートから出て、賑やかな繁華街までゆっくりと二人は歩いた。賑やかな通りまでは、いろんなお店が並び人も多く歩いている。初めの頃は、狭い道路に人と車とで危ないと思ったがいつもの様子なので慣れていた。運転する人も、車をゆっくりと運転して進んでいた。

 四つ角で、左側の歩道を歩いていた私は、右側の道路から左折する車と接触した。と、言っても私が一歩右足を道路に出した時に、左からゆっくりと走っていた車が左折したのでその時、私の右足の上をスローモーションのように車の左後輪のタイヤが靴の上に乗ったのだ。

 新しい流行りの先の丸い靴を買ったばかりだった私は、そっちの方に気を取られて一瞬何が起きたのか分からないくらいスローモーションだった。「あぁ~大事な靴の上にタイヤが!」と思った瞬間右足先の痛みが襲ってその場に座り込んだ。車は慌てて止まり中から降りてきたのは若い男性だった。

 「大丈夫なん?佳代ちゃん、大丈夫かぁ?」

 夏美ちゃんが駆け寄ってきた。その車に乗っていた若い男性も私の足を見ていた。私は痛みで顔を歪めていたのだろう、夏美ちゃんがその男性に興奮して言った。

 「何してんのん!あんたの車でこの娘が足を怪我したんやで。早う病院へ連れて行ってあげて!私が知っている病院がすぐそこやから!」

 そう言うと、夏美ちゃんも一緒に車に乗り込んできた。近くの個人病院へ急いだ。その男性は、緊張していたのか無言。怪我は大したことがなかったが、右足の親指から小指までがタイヤが乗ったので軽い捻挫らしく、痛み止めの薬と湿布薬をくれた。病院の支払いは、その泣きそうな顔の男性が払ってくれた。

 夏美ちゃんは、相手の男性の連絡先のメモをもらい、私の連絡先として、松下化粧品店の住所と電話番号を書いてその男性に渡した。その日は、買い物も中止で私は、足を引きずりながらアパートに戻った。夏美ちゃんが一緒にアパートまで送ってくれた。

「せっかくのお休みやから、私は、ちょっと遊んでくるね!」

と、夏美ちゃんはニヤッと笑ってペロッと舌を出して出かけて行った。いつも側に夏美ちゃんがいる。佳代は安心できる夏美との波調が好きだった。サバサバした性格もとても居心地が良かった。

 

 

 


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