「山下佳代さん!山下さん!本の準備ができていますよ。」
図書館の女性職員が佳代を呼んでいる。お願いしていた本を書庫まで取りに行ってくれて、貸し出しの本が用意できたと、読書スペースの椅子に座っている佳代の方を見て呼んでいた。
今日は、佳代の勤めている店の定休日、借りていた本を返却にきたのだ。最近、はまっている作家さんの新刊を借りたいと思い、予約していたのだった。
オサムと会えなくなってから、この中の島の図書館へ来ても佳代は張り合いが無い。気候の良い日には外のベンチで本を読んでいると、いつの間にかオサムが佳代に気が付かない様に側に座って本を読みだし声をかけて驚かせてくれた。今は九州にいるのだ。寂しい。
昨年のクリスマスの夜にアパートまで送ってくれた時、オサムと初めてキスをした。大きな手で佳代の肩を抱き寄せ優しくおでこにキスをした。そして、唇にキスをされた時、一瞬嫌な思い出が蘇った。
あれは、オサムがバーテンのアルバイトをしていた店に示談に出向いた佳代は、北田という男に、突然キスをされた! 事故の様な嫌な出来事。今も蘇る、唇にこんにゃくの感触。佳代は、人生で初めてのキスがこんな気持ち悪い思い出になったのかと一週間ほど落ち込んだ嫌な記憶。
今回のオサムとの初めてのキスで、あの嫌な唇の感触を私から払拭させてくれたオサムの素敵なキスは今も忘れられない。
あの時のオサムの唇はどこまでも優しく柔らかく、オサムの鼻先が佳代の鼻先に触れそうになる瞬間、佳代は夢心地で全身の力が抜けていた。佳代は寂しくなるとオサムの優しさや甘い匂いを思い出す。オサムに会いたい。
図書館の帰り、商店街の八百屋に寄ってキャベツを買った。側の肉屋で豚肉を買い、今日の夜はお好み焼きを作ろうと思った。お昼は節約して菓子パンで済ませようと牛乳と一緒に食べた。美緒ちゃんを夕食に誘おうかな、どうしようかな、佳代は迷っていた。
お昼を食べた後、佳代は部屋で本を読みながらうとうとしていた。昨夜、あまり眠れなかったのだ。先日の事が頭から離れない。二年先輩の頼子は最初から少し苦手なタイプだったがあそこまでずけずけと言うとは思っていなかった。頼子は、自分の思った事をストレートに言葉に出す。あの時、佳代が客に頼子の事を悪く言って客を取ったと思っているのだ。
主任の武田さんが頼子にちゃんと話しておくと言っていたが、結局店が終わって帰りロッカーでも、あからさまにツンツンして居心地が悪かった。美緒も何も言ってくれなかったのが悲しかった。それでも、生きていくためには仕事を頑張っていくしかない。せっかく艶ちゃんが紹介してくれた仕事先だ。佳代にとって条件が良すぎる程なのだから。
佳代は、毎月のお給料から節約して少しずつ貯金もできるようになった。今までの松屋町の住み込みで働いていた時よりも数倍貯金が増えている。自分の自由な時間も今はある。後、数年頑張れば纏まったお金ができるだろう。そうなると、住むところを探してアルバイトをしながらでも、いつか美容学校に行けるようになる。何時か将来はメイクアップアーティストになるんだ。と、夢を持っていた。
「化粧品を揃えて欲しいのよ!基礎化粧品からメイクアップの化粧品までね。化粧品の値段は気にしないで。貴方が良いと思うのをこのカウンターに並べてほしいの!実は、今使っているの全部嫌になってしまったからね!」
午後のお昼休憩が終わって店のカウンターに入ったところだった佳代の前にスラっとした背の高い化粧の濃い若い女性が立った。目元の化粧が濃かったが可愛い目で美形な顔立ちだった。この女性は、お化粧の仕方一つで女優の様に美しく出来る自信があると佳代は心の中で思っていた。
化粧品を一式、それも値段を気にしなくて良いのだ。高額の購入客になる。佳代はこの客が自分の客になったらと、少し期待した。
「ありがとうございます。今、揃えますね。まず、基礎化粧品はこちらでどうでしょう?このメーカーで、最上級の基礎化粧品です。最初に、柔軟化粧水でお肌を柔らかくして、この後使う乳液を浸透させやすくなっています。しっとりと滑らかにお肌にとても良い成分で香りもとても良い香りで。その後、収れん化粧水でお肌を引き締めます。夜お休みになる前には、この後でナイトクリームを付けてお休みくださいね。」
「お肌のお手入れをする場合は、このクレンジングクリームでお化粧を落として、柔軟化粧水でキレイに拭き取りマッサージクリームでマッサージをします。マッサージが終わるともう一度柔軟化粧水で拭いて、乳液、収れん化粧水、ナイトクリームの順番です。」
「宜しかったら、今からお肌のお手入れをさせてもらいますよ。お客様にお時間がありましたらですが。」
と、佳代は一通りの化粧品を並べてクリームの蓋を取って香りを客にかいでもらった。
「そうねぇ。良い香り!うん。時間、あるよ。じゃ、マッサージやってもらおうかなぁ。メイクアップの化粧品はその後で又、貴方が選んでね!今買うこの化粧品の封を切って使ってくれたらいいから。使う順番もしっかり聞きたいしね!」
「実は、私芸能界で働いているのよ!あなた興味ある?」
そう言って彼女はマッサージルームに入った。佳代は、カウンターに並べていた最高級品をマッサージルームに運んで準備をしていると、彼女はおしゃべり好きなのか次々話題を変えて佳代に話しかけてくる。佳代よりも少し年上の様な気がする。佳代にとって嫌な客ではない、若い佳代と気が合うという雰囲気をかもしだしている。
いつも、化粧品の売り上げはあまり意識しないようにしていた。大抵は一品、二品、の客が多い中、数万を超える買い物はめったにない事なのだ。佳代は心の中でテンションが上がっていた。三十分ほどマッサージルームでおしゃべりをしながら買ってもらった商品で肌の手入れを終わらせ、店に備え付けのメイクパレットやファンデーションで佳代がメイクアップをさせてもらった。
「いやぁ~!すごい上手だねぇ!私じゃないみたい!キレイに見える!ありがとう!又次、来るからメイクの仕方教えてよ!すごいわぁ。」
若い客はとても驚いて佳代に感謝してくれた。佳代は嬉しかった。ゆっくりメイクアップをさせてもらって少しだけ自信が付いたのだ。カウンターに戻り彼女の希望通りのメイクアップ用品全て揃えてお会計をしてくれた。客一人の単価、今月一番の売り上げの日だった。そして、美しい若い女性の三輪明美さまは、佳代の客としてあの分厚いお客様台帳に記入してくれたのだ。
「佳代ちゃん、良かったねぇ!この店でファーストファイブに入る上客さまかも知れないよ!ご苦労様!芸能界で働いているんだってね、また友達を連れてきてくれるかもよ!」
なんと、今まで心地無かった美緒ちゃんが佳代の入っているカウンターに近寄ってきて労ってくれた。他の人も佳代がレジをしていると、笑顔を向けてくれた。あの先輩の頼子だけは、無表情だったが佳代は気にしなかった。いつかは、分かってくれるだろう。
「美緒ちゃん、ありがとうね!私の本気のお客様一号かも知れないよ。嬉しいよ。」
佳代は、心からそう思ったが売り上げよりも 美緒の顔を見て、 美緒との仲が元に戻ってくれた事が嬉しかったし、感謝した。最近寂しかったので、余計そう思った。その日の帰り、ロッカールームで普段話さない先輩からおめでとうの言葉をもらった。もう一人の先輩も笑顔で佳代の顔を見てくれた。
その日の晩に、佳代は嬉しくてオサムに手紙を書いた。前回の手紙の返事がまだ来ていないが話したくてしょうがなかった。 今日一日あった事を事細かに書いた。前回の手紙に美緒ちゃんと上手くいかない事も、一人で寂しいと泣き言を書いてしまった事も反省していた。
六月に入り慌ただしく毎日が過ぎていった。社員旅行の当日、社長から店で説明があった。
「えー!今回の社員旅行は静岡の温泉地です。宿泊する旅館は、テレビでよく宣伝しているあの大きな旅館らしいですよ。支店のみんなも途中合流する予定で、化粧品メーカーのセールスマンも数名参加との事です。あちらが主催者側なので詳しい事はお任せしています。皆さん怪我のないように気を付けていきましょう。」
天王寺のお店の従業員女性八名と支店の人達と天王寺駅で合流するらしく社長は上機嫌で説明をしていた。